日本教育史資料

近世の教育思想家の肖像画や筆蹟、藩校や私塾で使用された和漢籍、国書、寺子屋で使われた往来物、明治初期の教科書や国定教科書のほか、近代教育制度の成立と近代学校の誕生にかかわる教育行財政資料や教務関係資料、教具・学習用具などを収集しています。

(第一展示室)

幕府の教育

昌平坂学問所(昌平黌)

江戸幕府が幕臣の子弟を教育するために設置した、幕府直営の儒学を主とした学校である。昌平坂とは、孔子の生地、昌平にちなむ。

幕府儒官林羅山が1630年に上野忍岡に聖堂を建て家塾(弘文館)を開設したことに始まる。5代将軍綱吉は、1691年にこれを湯島に移し、林家3代鳳岡を大学頭に任命した。11代将軍家斉の下で老中松平定信は、1797年に幕府直轄の学問所とした。以後、朱子正学の方針を堅持し、幕臣のみならず、諸藩からの留学生も多く学んだ。明治維新後は、昌平学校となりのち大学と改称し、東京大学の母体のひとつとなり、わが国官学の中心として今日にいたる。

藩校

藩校出版物

藩校は教育機関である同時に、一部の藩では、藩の出版局としての役割も兼ねていた。刊行されたのは藩校で使用するテキストが中心であるが、藩主や教官の著作、藩の基本理念に関する書などもあった。テキスト類を自前で出版することにより、藩校の生徒に教科書を安価で提供することを可能にし、また藩によっては受講者以外の希望者にも、身分を問わず紙代程度、貧しいものには無料で分け与えたことにより、出版物、ひいては学問を広く藩内に普及させることを可能にした。

平戸藩維新館日記 1850(嘉永3)年

肥前平戸藩校維新館は、好学大名としられる藩主松浦清(静山)によって1779(安永8)年に設置され、熱心に藩士の教育を行っていた。本資料は嘉永3年の維新館の日誌で、藩校における文武両面にわたる教育活動の実際がつぶさに記録されており、これらを分析することで教育組織や授業のローテーションの様子を読み解くことができる。

私塾

蘐園諸彦会讌図(けんえんしょげんかいえんず) 雨宮章廸画
61.1×52cm 絹本着色 軸

荻生徂徠(1666-1728)を祖とする古文辞学派は、徂徠の別号蘐園をとって蘐園学派とも呼ばれ、一大学派をなした。徂徠は門人に恵まれ、太宰春台、服部南郭、柴山鳳来、三浦竹渓らは「物門四傑」と称せられ、また、徂徠と彼の門人の春台、南郭、山県周南、安藤東野、宇佐美潛水、平野金華、僧万庵ら才子は「蘐園八子」と呼ばれるなど、一門の名声は高く、才俊が輩出している。この絵は、その八子の会合の様子を表したもので、一人一人の風貌や人柄の特徴を描き出しており、肖像画としての価値が高いものである。この門下七才子については、徂徠の死後論議され、数十年後に上記人物がその定説となったいきさつがあり、その頃描かれたものと推定され貴重なものである。

寺子屋の起源と発達

寺子屋風景「書学之図(てならいのず)」下河辺拾水書・画 上河正揚(子鷹)編

玉川大学図書館所蔵

京都 林安五郎 1781(天明元)年、「孝経童子訓」より
この「書学之図」は江戸中期頃の場面で、師匠は一段高い所にすわり、後方には書籍だなを置き、児童は畳敷の座敷(教場)に机をならべて勉強した。習字の教授法は、毎日、児童を2、3名ずつ師匠の面前に呼び出して、こもごも筆法を授けた。編者子鷹は手島堵庵の養子で心学者。

天神机

寺子屋で使用されているのは、一般に天神机といい、男机と女机にわかれ、さらに寸法によって大・中・小にわかれていた。材質は一般に桐や杉などを使用し、両袖は筆が落ちないように筆返が施されているものもある。

江戸時代の科学

解体新書
杉田玄白訳 中川淳庵校 石川玄常参 桂川甫周閲 小田野直武図

1774(安永3)年、ドイツ人医学者クルムス「解剖学図譜」のオランダ訳書「ターヘル・アナトミア」から杉田玄白らが訳した日本最初の西洋医学の解剖学翻訳書。「解体新書」の刊行は、日本人がオランダ語を学び西洋の学問を知る道を開いた日本文化史上特筆すべき出来事であった。

明治維新と近代学校の成立

学制序文(被仰出書(おおせいだされしょ))
太政官布告第二百十四号 1872(明治5)年

日本の近代学校制度は、1872(明治5)年8月2日太政官より布告された「被仰出書」及び翌8月3日頒布された「学制」からスタートしたといえる。その内容は、国民皆学、機会均等など幕末の教育実態と対比すれば、実に先見の明に満ちた名文である。

学問のすすめ 福沢諭吉・小幡篤次郎共著 1872(明治4)年

この小冊子は、福沢諭吉が学問の趣旨を同郷の旧友に示すつもりで書いたものを、のちに慶応義塾の活字版をもって印刷した初版本。冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字は文明開化期の青少年を奮い立たせた。明治5年の「小学教則」には国語教科書としてとりあげられている。

天球全図 司馬江漢

江漢は蘭学者の前野良沢についてオランダ語を学び、N.ショーメルの「家庭百科事典」やE.ボイスの「学芸辞典」の中にある銅版画から刺激をうけ、日本で初めて腐蝕銅版画の制作に成功、多くの銅版画による作品を制作した。この図は「天球図」の揃物で「屋耳列礼図」「天動説地動説説明図(仮題)」「大地浮天之図」「潮候図」「以顕微鏡観雪花図」「以顕微鏡観虫類図」などである。

墨塗り教科書

初等科音楽 四 児童用 文部省 東京書籍 1943(昭和18)年
初等科音楽 四 教師用 文部省 東京書籍 1941(昭和16)年
初等科音楽 四 児童用 文部省 東京書籍 1943(昭和18)年 参考
1945(昭和20)年8月の終戦とともにわが国の教育は一大転換をせまられ、教科書についても大きな変革を余儀なくされた。このような混乱のなかで9月20日文部省は「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」なる次官通牒を発し、国定五期教科書の戦時色の濃い教材の全部あるいは部分的修正削除を指示した。これによって「墨塗り」や「切り取り」が実施された。この文部次官通牒は、10月2日連合国軍最高指令官総司令部による指令「日本教育制度ニ対スル管理政策」以前のものであり、「国体護持」のために文部省の独自の判断で自主的に行われたものであった。

「修身教科書 一年生用」満州国小学校用 1932(大同元)年

図絵に現地の服装や生活習慣を取り入れて親しみやすさをだす工夫をしている。

「唱歌 4年生用」台湾総督府 1935(昭和10)年

修身、国語、算術、理科などとともに音楽も国内同様に教科書が作成されている。

「初等地図」朝鮮総督府 1942(昭和17)年

植民地になっていた朝鮮や台湾は日本国内同様に赤で塗られている。

球竿


明治の代表的体操である球竿体操に用いた体操用具「小学生徒体操の図」に描かれているように、これを用いて脚の弾性運動・腕の正しい挙振運動・姿勢の矯正運動などに利用された。

米国教育使節団報告書

米国教育使節団はGHQ(連合国軍総司令部)の要請で前後2回にわたって来日した。第1次使節団は、1946(昭和21)年に来日。教育再建と新教育の基本方針を提示した。翌1947年3月、この報告書をもとに「教育基本法」を中心とした一連の教育に関する立法措置がなされた。特に義務教育6・3制をはじめ「社会科」の新設、教育委員会の委員公選制など主要な改革が推進された。

米国教育使節団訪問

1946(昭和21)年3月26日、米国教育使節団は玉川学園を参観した。その時の団員、トロー、ヒルガード、ディーマー博士らと連合国軍最高司令部情報局教育課のバーナード博士らは、子どもたちの自学を中心とした教育、労作、芸能教育など玉川教育の成果を熱心に見学し、高く評価したといわれる。

新教育運動と玉川学園資料

八大教育主張

大正期新教育運動を代表する一連の教育思想。1921(大正10)年8月、東京高等師範学校の講堂で民間の教育者8人による講演会で発表されたもの。

樋口長市「自学教育論」、手塚岸衛「自由教育論」、稲毛金七「創造的教育論」、千葉命吉「一切衝動皆満足論」、及川平治「動的教育論」、小原國芳「全人教育論」、片上伸「文芸教育論」。

いずれも明治期の形式的注入主義教育に反対し、こどもの自主活動と自由で自律的、創造的な学習を強調するものであった。

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