良い読書・悪い読書

2017.07.04
教育学部教育学科 通信教育課程 准教授  松山 巌

三省堂の『新明解国語辞典』は語釈や例文が妙にリアルで、一部に熱心なファンがいるようだ。同書で有名な項目の一つが「読書」である。ほとんどの国語辞典が単に「本を読むこと」としているのに対し、新明解は長い。

「〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕一時(イットキ)現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり 人生観を確固不動のものたらしめたり するために、(時間の束縛を受けること無く)本を読むこと。〔寝ころがって漫画本を見たり 電車の中で週刊誌を読んだり することは、本来の読書には含まれない〕」(第7版)

『新明解』は私も好きだが、この項だけは納得がいかなかった。読む対象や読み方をそこまで厳しく制限しなくてもいいではないか。

実際、自分がこの半年ほどで読んだ本を振り返ってみると、地方自治法の入門書、法制執務の基礎知識、外国語に関するエッセイ、計算尺、ミステリー、データベースの設計、切手のカタログ、音声学、絵本、地学、確率論、中級ドイツ語文法、フォントのデザイン、契約結婚を主題にしたマンガといった具合で、場所は大半が通勤電車の中。『新明解』の定義ではほとんどが読書から外れそうだ。

思い返すと小学生の頃、読書の時間に図書室で好きな本を読みながらも、どこからか「そういうのは読書じゃないよ」という声が聞こえてくるような気がしていた。当時私が通っていた小学校では読書感想文を盛んに書かされた。まるで感想文が読書の目的であるかのように。「感想文は、決して無理強いをしないことである。……特に、何の指導もしないまま夏休みの課題にしたりすることは、感想文嫌い、読書嫌いを生むことにつながる」1)という指摘の通りであった。大学生になって感想文から解放されると、気兼ねなく自由に読み、生協書籍部の書評誌の委員もした。

書評はどんな本も対象になるだろうが(実際、図鑑や辞典や学習参考書の書評が新聞の読書面に載っていた)、感想文は本の向き不向きがある。その結果、「感想文に適した本」を読むことが良い読書である、というメッセージを(先生は意図していなかったかも知れないが)子どもなりに受取っていたように思われる。『新明解』の語釈はこれを別の視点から述べたものともいえそうだ。

たとえば、物語や伝記、またノンフィクションでも主人公となる人物が登場して、成長したり葛藤したりするものは感想文に向いている。一方で、『理科年表』『二進法と電子計算機』『地図はさそう』といった本はあまり向いていないということになるだろう。だが、これらの本も書評であれば対象になり得る。

中学校で長年国語を教えた若林千鶴氏は、「読書感想文は学習方式の一つ」2)なので年1~2回書かせれば十分、と述べている。読書という活動には自動的に感想の執筆がついてくるというのではなく、「感想を書く」という営みまで含めて学習過程であり、したがって感想文についてもきちんとした指導が必要だということなのだ。卓見である。ただ、「感想文が読書嫌いを作る」という主張に対する若林氏の反論を読むと、前述の「意図せざるメッセージ」を感じてしまう生徒の存在には必ずしも気付いていないように思われる。

その点、近年広まっている「朝の10分間読書」の4原則には、「みんなで読む」「毎日読む」などと合わせて「好きな本でよい」「ただ読むだけ(=感想などを求めない)」が含まれている。すなわち、「学習」から独立した「単なる読書」という位置づけであり、大変意義深いことである。

ただ、『新明解』の語釈もよく読み返すと一理ある。マンガや雑誌に対する偏見は首肯しがたいものがあるし、また現代社会において「時間の束縛を受けない」ことは非常に困難だが、「一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせ」ることならできる。どんな本であろうと、自分の好きな本を読んで、自らをそのような状態におけば、それが読書になるのだ。

引用文献

  1. 蔵本和子「読書指導の方法」,朝比奈大作編『読書と豊かな人間性』(司書教諭テキストシリーズ04)樹村房,2002,p. 97
  2. 若林千鶴『読書感想文を楽しもう:本と子どもを結ぶ読書感想文の書かせかた』全国学校図書館協議会,2010,p. 47 以降