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科学するTAMAGAWA 玉川の教育の真髄が凝縮された校歌と音楽

2014.02.25

学園創立とともに生まれ、歌い続けられている玉川学園校歌。
そこには、創立者とその同志たちの
教育に対する深く、熱い想いが込められています。

一、空高く 野路は遥(はる)けし
  この丘に 我らは集い
  わが魂(たま)の 学舎(まなびや)守(も)らん

二、星あおき 朝(あした)にまなび
  風わたる 野に鋤(すき)振う
  かくて我ら 人とは成らん

三、神います み空を仰げ
  神はわが 遠(とお)つみ祖(おや)
  わが業(わざ)を よみし給わん

創立以来歌われ続ける玉川の校歌

玉川学園では「歌に始まり、歌に終わる」といわれるほど、音楽が生活の一部として染みついています。中でも特に頻繁に歌われるのが、当然ながら校歌です。玉川学園校歌は、1929(昭和4)年の開校とともに誕生し、いくつかの変遷を経ながら現在に至るまで脈々と歌い継がれてきました。そこには、玉川学園創設に携わった人々の教育に対する想いがたくさん込められています。今回はそんな校歌の誕生エピソードや変遷について、玉川大学教育学部乳幼児発達学科の朝日公哉助教にお話を聞きました。

玉川の教育方針を十全に語る歌詞

「玉川学園校歌の歌詞がつくられたのは、1929年の3月のことです」と朝日助教は話します。「その当時、まだ成城学園に住んでいた創立者・小原國芳の家に同志が集まり、玉川学園の教育方針などについて毎日のように話し合いを行なっていました。そのうちの一人が、校歌の作曲者で後に東京音楽学校(現:東京芸術大学)音楽部長となる田尾一一(たおかずいち)でした」。

そんなある日、小原邸での話し合いの際に田尾は小原から作詞の依頼を受けます。「田尾はその日の帰り道の途中で構想を練り、そこで歌詞の大枠をつくりあげたそうです。そう言うと、簡単に書かれたように感じるかもしれませんが、そうではなく、何度も何度も小原邸で新しい学校の夢について語り合い、玉川学園のベースとなる教育方針をともに練り上げていたからこそ、田尾はこの歌詞を書けたのでしょう。歌詞には労作教育、個性尊重、宗教教育という、今も変わることのない玉川学園の教育方針がみごとに表現されています。玉川学園の確固たるイメージがなければ、このような歌詞は出てこなかっただろうと思います」。

素直な気持ちをそのまま曲に

その完成した歌詞を渡され作曲の依頼を受けたのが、岡本 敏明(おかもと としあき)です。
「岡本が作曲したのは同年4月4日だと記録されています。依頼を受けた日の夕方、岡本は現在礼拝堂が建てられている聖山の中腹に立ち、眼下に広がる武蔵野の景色を一望すると、自然にメロディが出てきたといいます。わずか1時間ほどで曲が完成したそうです。岡本は『この歌に始めからこの曲がついて居たような気がしました』と書き残しています」と朝日助教。

「これほど早く曲ができたのは、歌詞の持つ力に因るところもあったと思いますが、岡本自身の作曲方針も大いに関係があると思います。というのも、岡本は曲づくりを作曲ではなく、“作直”と言っていました。一般的に作曲とは作者の思いやこだわりが詰まったものですが、それは子供たちにとって必ずしも歌いやすいものになるわけではありません。そうではなく、直感的に素直な気持ちから出てくるものに価値があると考えていたのです。『曲者、曲がりもの』の“曲”に対して、『直感、素直』の“直”を重視したわけです。優れた曲というものは、往々にしてこのように一瞬でできあがることがあるのです」。

校歌の変遷が意味するもの

こうして完成した校歌は、いくつかの変遷を経て現在の形になったと朝日助教は話します。「最初の楽譜では、ト長調、4分の2拍子、発想は『力強く』と記されています。これは私見ですが、岡本はマーチを意識して作曲したのではないかと思います。というのも、創立者の小原は岡本に対して『元気の良いものを』と依頼していたことが確認されているからです。また、ト長調としたのは男子も女子も、子供も大人も、元気よく伸び伸びと歌えるようにしようと考えたからでしょう。岡本は声域に特に神経を使う人でした。音が高すぎたり低すぎたりして歌えないことは、音楽が嫌いになる大きな要因だからです。本来、調にはヘ長調なら『牧歌的、開放的』、ハ短調なら『絶望や悲壮感』などといった調の響きに対するイメージがあって、それを考慮して作曲するものですが、それ以上に教材としての観点から考えて、誰もが歌えるちょうど良い高さとなるようト長調を選んだのだと思います」。

その後、曲はハ長調に変更されたほか、1942(昭和17)年には2拍子ではあるものの、発想は「荘重に」、メトロノーム記号で四部音符=60と記されるようになり、さらに1949(昭和24)年には8分の4拍子、メトロノーム記号で八分音符=120と変更され、これが現在でも使用されています。「この変更には、混声四部合唱にしたときのイメージの変化が見て取れます。もしかしたら、岡本は始めから混声四部合唱としての校歌をイメージしていたのかもしれません。というのも、岡本の父はプロテスタントの農村伝道師であり、母は教会のオルガニストでした。つまり、岡本は讃美歌で育ったと言え、そして讃美歌は基本的にハーモニーがベースだからです。現在の校歌を聴くと、どことなく讃美歌がイメージされるのは、こうした背景があるのだと思います」。

岡本はこの校歌の他にも、ハーモニーを重視した曲を数多く残していると朝日助教。

「たとえば、よく知られている『蛙の合唱』は、玉川に滞在していたスイスの教育学者ヴェルナー・チンメルマンが紹介したドイツ語の原曲に岡本が歌詞をつけて紹介し、日本中の小中学校で歌われるようになったものです。ご存じの通り『蛙の合唱』は輪唱ですから、ひとつのメロディを覚えれば、拍節を少しずつずらすだけで自然とハーモニーが生まれます。そのことは、他者と音を合わせるよろこびや、人の音を聞いてバランスを取る大切さなどを教えてくれるでしょう。教育学的にいえば他者との協調性やコミュニケーション能力の育成ですね。このように、岡本は教材としての音楽の重要性を常々考えていたのです」。

生活の音楽による人格陶冶

「玉川に歌のない日はない」。そう朝日助教は話します。「それはたとえば、小学1-4年生の朝会の様子を見ればわかります。校庭に音楽が流れると、子供たちは朝の歌を歌いながら集合し、集まったら季節の歌をみんなで歌います。それから黙祷のあと今度は校歌を歌い、最後はマーチに合わせて教室まで行進で戻ります。それだけではなく、各学年の集まりでも、各クラスのホームルームでさえも歌を歌います。歌うことが習慣になっているんですね。その特徴は演奏者=学習者主体であることです。一般的に歌は聞いている人を喜ばせたり感動を与えたりするものです。一方、玉川の音楽教育はそれ以上に、いかに伸び伸びと楽しく歌えるか、それにより生活の体験が深まったり、人の気持ちを考えられるようになったりすること、つまり音楽を通した人格陶冶を主眼としているのです。私たちはよく全人教育になぞらえて『全人音楽』と呼んでいますが、岡本が考えていたのと同じで、人間教育としての音楽なのです」。

そのことをよく表しているのが、玉川学園で長年使用されている歌集『愛吟集』です。「『愛吟集』には、生活に密着した歌がたくさん収録されていて、春には春の歌、朝には朝の歌、別れのときには別れの歌が歌えるようになっています。しかも、別れの歌だけでも9曲ほど収録されていて、『また明日』という別れから二度と再会できない人との別れまで、その場面に応じて選べるようにたくさんの歌が用意されています。また、四部合唱の曲でも最初のパートだけユニゾンで始まるので、ピアノがない屋外でも簡単にハーモニーを生み出せるような曲も豊富にあります。つまり、『いかに生活の中に歌を取り入れ、生活に潤いを与えられるか』を重視して選曲しているということです」。

この『愛吟集』のもとになっているのは、ドイツの歌集だと朝日助教は言います。「このドイツの歌集は、表紙と裏表紙の四隅に鋲が打ってあります。これは、ビアホールに集まった人々がみんなで歌うときに、ビールがこぼれても歌集が濡れないようにとの配慮です。それだけ、歌が生活の近くにあって歌を大事にしているということですね。創立者の小原國芳は、ヨーロッパの各地をめぐり、そうした文化を目にしました。そして、日本の技術や経済がいかに発展しようとも、こうした文化に追いつかなければ先進国とは言えないと考えたのです。玉川学園の校歌や音楽教育には、こうした先人たちの想いがたくさんつまっているのです」。

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