講演会「小原國芳・学校劇の100年─その目的と変遷─」を開催しました。

2017.02.10

「学校劇」は玉川学園創立者の小原國芳から始まっています。小原が広島高等師範学校付属小学校に勤めていた1919年のことでした。それからまもなく1世紀が経過しようとしています。
1月21日(土)、「University Concert Hall 2016」の大ホールMarbleにて講演会「小原國芳・学校劇の100年─その目的と変遷─」が開催されました。講師は、芸術学部パフォーミングアーツ学科教授・教育学部全人教育研究センター研究員の法月敏彦氏。自らも玉川学園高等部時代から学校劇に関わってきた体験談も交えたユーモアたっぷりのお話に、観客はすっかり魅了されていました。

思いのこもったトークと貴重な記録写真で、小原國芳の「学校劇」にかける強い思いが蘇る

当日は、厳しい寒さにもかかわらず、芸術学部や教育学部の学生、学園OB、学校劇関係者など多くの参加者が集まり、期待の程がうかがえます。
講演会はまず小原芳明学長が挨拶に登壇。創立者が唱えた総合芸術としての学校劇が全人教育と密接に関わっていることを述べ、現代のアクティブ・ラーニングにつながるものであることも示唆されました。
続いて登壇した法月教授は、まず自身の玉川での関わりと「学校劇」の名付け親・小原國芳、そして戦後の玉川学園における「学校劇」を支えた岡田陽(児童演劇研究者・当時中学部長)との出会いをユーモアたっぷりに紹介。特に中学部の面接試験で当時人気があった村田英雄の『王将』を歌い、小原から「キミ、合格!」と言われた話で会場は大いに湧きました。また、中学部3年の時、イリノイ州マンマス大学での英語研修に行く際、岡田中学部長から言われた「キミは一生懸命英語の勉強をして、将来、玉川で演劇の先生になるのはどう?」という問いかけが現在の自分につながっているという興味深いエピソードも披露されました。

小原國芳が「学校劇」の名付け親とされるのは、広島高等師範学校付属小学校の理事を務めていた当時、紀元節に行われた学芸会で初めて「学校劇」という名称を使ったことに由来します。それ以前の香川師範学校教諭時代に、英語教育の一環として積極的に演劇を行っていたことがあり、法月教授はそれこそが小原の「学校劇」への思いの出発点であり、小原の中で英語教育と演劇が自然に結びついていたと指摘しました。
また、「学校劇」が1919年、すなわち帝国憲法発布三十周年祭のタイミングでスタートしたことの重要性についても言及。その時の小原の気持ちは、後に東京・成城小学校に招聘された後に発表した『学校劇論』の中に以下の通り述べられています。

「(広島に)行った最初の紀元節が、憲法発布三十年祭である。私の血潮は到底、冷ややかであり得ない」。

法月教授は、時代を画す記念行事と「学校劇」にかける思いがありありとわかるこの文章を「大好きです。燃える男・小原國芳の面目躍如」であると話します。小原は広島での同僚で下宿が一緒だった音楽教員の山本寿と、連日連夜、学芸会をどうするかについて熱く語り合っていたそうです。小原が「学校劇」のネーミングを提案したのに対し、山本は「唱歌劇」を主張。「意見を戦わせたと言うより、二人の思いが二つの言葉になった」(法月教授)。結局、その時は先輩である山本の提案が採用され、当時のプログラムを見ると「唱歌劇」と記されていますが、「学校劇」の名称はこの時に初めて生まれました。

その後東京・成城小学校、そして自ら創設した玉川学園に「学校劇」の伝統は受け継がれていきます。初めての唱歌劇『天の岩戸』など当時の貴重な写真をスライドで紹介しながらの講演は、100年近く前の小原の情熱と苦闘が活き活き伝わるものでした。
小原が広島高等師範学校着任後まもなく発表した論文に「教育の根本問題としての真善美聖」があり、小原の全人教育の初期の姿を知る資料となっています。その中に学校劇に関連する次のようなくだりが見られます。

「総合芸術としての劇」
「児童の本性否人間生活そのものが劇的なものである」
「芸術が自己表現であり、個性発揮である」
「哲学科学、道徳、芸術とは(中略)真善美三者を以て心意活動の全範囲は尽くる(中略)其等三つの一切の価値が宗教的形式を取り得る」

法月教授は、この論文のタイトルを踏まえて、小原にとっての「学校劇」は「教育の根本問題としての芸術」という言葉に集約されるのではないかと述べました。この後、玉川学園創立30周年、そして40周年でメーテルリンク作『青い鳥』が取り上げられ、学園の規模とともに、「学校劇」のあり方も次第に変化していったそうです。

小原國芳の志を継ぐ者たちが創り上げた玉川学園「学校劇」の伝統。そして未来へ……

講演会の後半は、主に戦後の玉川学園において「学校劇」の思想と実践がどのように進展してきたかについて振り返りました。
第二次大戦後、長らく中学部長を務めた岡田陽が中心となり、小原の二人の娘(次女・純子は岡田陽夫人)も加わって「児童生徒の総合学習である」「児童・生徒にしかない芸術性と素朴性」(玉川学校劇集)というコンセプトのもと、玉川学園の「学校劇」は一気に充実期に向かいます。
そして1947年12月、玉川学園創立20周年、玉川大学創設、小原國芳還暦を記念して、小原の自叙伝である『少年の頃』が上演されました。劇中歌として作られた『小さい花』は、後に玉川学園だけでなく世間でも広く歌われるようになりました。
そこで法月教授が舞台袖に声をかけると教育学部の学生有志7名が登場。『少年の頃』のワンシーンを再現し、『小さい花』の合唱を聴かせると、会場は大きな拍手に包まれました。

さらに、1960年代以降の玉川学園の音楽・舞踏・演劇の海外公演や宗教劇の伝統についても触れました。1989年のアメリカ・カナダ公演の舞踊劇『山ふところ』の貴重な映像が上映され、宗教劇の伝統についてはキリスト教の学校の布教教育とは異なって、「布教」ではないスタンスで行われていることについて解説。1975年に上演された『ジーザス・クライスト・スーパースター』は小原の故郷・鹿児島でも上演されました。当初は老齢の小原にロックオペラを理解してもらえるか、関係者は気を揉んだそうですが、小原は「いいなあ!」と感激冷めやらぬ面持ちだったそうです。
さらに演劇教育、上演・鑑賞教育、そして芸術学部の誕生など玉川大学における芸術教育の伝統を振り返り、最後にこれからの「学校劇」に関して以下の3つの指針を提示。「学校劇はカタチではなく、みんなが力を合わせて美しいものをつくる」ことがもっとも重要なことではないかと提言されました。

【未来の「学校劇」のために】
「効率の高い総合学習」
「生の喜びが得られる学習」
「人の繋がりが感じられる学習」

法月教授の軽妙な話術もあり、会場は終始和やかな雰囲気に包まれていました。講演後の質疑応答も会場から活発に手が上がり、「学校劇」をめぐる熱い意見交換が繰り広げられました。

1975年「ジーザス・クライスト・スーパースター」公演より

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