山口先生:「平等について」Vol.3:無差別的平等と比例的平等

2017.12.20

人々の「有様」は皆異なるが自然法思想における「権利」は皆同じということは、富者も貧者も選挙権は皆1票、さらには老若男女、生きる権利は皆同じというような事例を考えればすぐに理解できることである。だが平等はこうした権利における同等性、すなわち「無差別的な平等」というような観点だけではなく、別の観点からも論じられる。例えば、株主は保有株数が多いほど議決権は増えるし、野球選手をみれば活躍の度合いに応じて給与は異なってくる。いわゆる「比例的な平等」である。
この二つの平等は、古代ギリシアの哲学者プラトンやアリストテレスに遡ることができるが、彼らの平等思想、特にプラトンの言う「比例的平等」※1、アリストテレスの言う「配分的正義」※2は後の哲学者キケロ(前106年~前43年)の「各人に彼のものを」、ローマ法学者ウルピアヌス(170年頃~228年)の「各人に彼のものを与えんとする恒常的意思」に影響を与えている。これらはいずれも「無差別的平等」よりも、その人に応じたものを与えるという「比例的平等」こそが正義に適ったものとする立場である。
いわゆる能力給(冒頭のDの質問では日当5千円)はこうした比例的平等という観点からの視点である。また男女差に応じた料金(Cの質問:食べ放題:男性は3000円、女性2000円)も一般に身体の大きい男性の方が女性よりもたくさん食するから、比例的な意味で平等と捉えることができるのである。さらには男性・女性、それぞれの特性に応じた道徳的規範(男らしさ、女らしさ)も比例的平等という観点から理解することも可能となる。
とはいえ、無差別的平等を主張する人からすれば比例的平等は不平等に他ならず、逆もまた同じ事が言えるがゆえに、内実を規定しない単なる「平等社会を築きましょう」というような主張は空念仏となる。そこで重要なのが、単に「平等社会を築きましょう」というのではなく、どういう場面においては「無差別的平等」を用いるのが妥当か、またどういう場面においては「比例的平等」用いるのが妥当か、その論点をはっきりとさせた議論をすることである。
ノーベル賞を受賞したインドの経済学者アマルティア・センは「平等を判断するときに用いられる変数は複数存在する」と語り(『不平等の再検討』岩波書店、p1~2)、さらに「ある変数に関する平等は他の変数に関する不平等を伴いがちだ」(同書p26)と述べている。一律同額給与という観点から平等を語れば多くの仕事をした人には不平等感を与えることになる。また自由な経済活動を人々に平等に与えれば結果として所得の平等はありえないし、所得の平等を優先すれば自由な経済活動が人々に与えられることはない。それゆえ、ある変数に関する平等を主張する際には、そこから結果する他の不平等を生じてもなおそれを優先すべき根拠は何かという点を議論することが必要なのである。(続)

  • 1『プラトン全集13巻(法律)』p344~346(756E~757D) 岩波書店
  • 2『アリストテレス全集13巻(ニコマコス倫理学)』p151~154 (1131a10~1131b20) 岩波書店