森山先生:教師と感性Vol.2:理論と実践の往還と実践的指導力

2015.08.03

現在、教員の資質能力が取り上げられる場合、「実践的指導力」という語がまさにキーワードとなっています。これらの一連の「教員の資質能力」にかかる実践的指導力を、われわれ教員養成サイドはどのように捉え、どのような形で進めていくのでしょうか。
当然のことながら教育の理論と実践の往還による教員養成の方向は、さらに充実しなければならないのですが、そもそも大学での養成において、教育学とその理論を学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。このことは、理論と実践の関係や位置づけが、ある意味において取り残された課題であるといわなければならないのです。
ここでは、これまでの近代教育における歴史の中で、とりわけ教師の重要な資質として示されてきた「教育的タクト」について取り上げてみます。
タクト(takt,Takt)の語源は、ラテン語のtactusに由来し、もともとの意味は、接触、触覚でした。一般的には、音楽の用語として指揮棒、拍子、節といった意味で使われており、ヨーロッパにおいては10世紀以来、音楽分野での秩序原理として、拍子をとる意味において用いられていました。
もともと音楽分野で使用されてきたタクトの語が、人間関係の分野に転用された契機は、フランスのヴォルテール(Voltaire,1694~1778)が上流社会での礼儀にかなった振舞いの意味、すなわち交際用語として用いたといわれています。
まさにタクトの意味は、人間関係そのものを示すもの、具体的には人間同志のかかわりにおいて、相手の考えや感情を的確に読み取り、その状況に応じて臨機応変に振る舞うという意味として捉えることができます。
この流れのなかで19世紀に入り、教育学の分野にタクトの概念を導入し、とりわけ教師の資質としての明確な位置づけを行ったのが ヘルバルト(J.F.Herbart,1776~1841)です。
1802年に始まったゲッチンゲン大学における『最初の教育学講義』の中心的なテーマは、「教育の技術は経験だけに基づくものではない」という課題でした。
ヘルバルトはこの最初の講義のなかで、まずはじめに、学問としての教育学を教育の技術と区別し、この二つの関係について次のように明確に言及しています。

「技術への準備は学問によって行われるものである。この準備とは仕事に従事する以前の悟性と心情の準備である。われわれが仕事に従事する中でだけ得ることができる経験は、このような準備が行われることによって何よりもまず、われわれにとって教訓的となるのである。行為そのもののなかでだけ技術は学ばれるし、タクトや熟練や敏速さや器用さが身に付けられるのである。しかし、行為そのもののなかで技術を学ぶのは、前もって、思考により学問を学んで、これを自分のものとし、これによって自身の情調を整え、そのようにして経験が彼の心に彫みつけるはずの将来の印象をあらかじめ規定することのできるような人間だけに限られるのである。」

ここでの準備の中心的存在となるのが、教師の望ましい「タクト」を形成することで、ヘルバルトはこのタクトについて次のように述べています。
「理論と実践との間に一つの中間項、つまり、確かなタクトが介入するのである。このタクトは、すばやい判断と決定であるが、それは慣行のようにいつでも変わることなく一様に行われるものではない。」
このタクトは、どのように確立されていくのでしょうか。まさにタクトは、実践にたずさわっている間にはじめて作り上げられます。したがって、われわれが実践のなかで得られる経験が、自身の感情へと働きかけることによって作り上げられるのです。しかしながら、このタクトの形成が最も適切に行なわれるのは、教育実践にたずさわる以前に、思慮により、反省により、探究により、正しい学問によってわれわれの情調が整えられているときなのです。
このようなことから、ヘルバルトは技術への準備は、学問によって行なわれるという結論を導くのです。
ここで取り上げたヘルバルトのタクト論は、今日の我が国の教員養成の在り方、とくに、もう少し具体的に言うならば、教師は何のために教育の理論を学ぶのかに対する一つの答えとして、示唆に富んでいると思われます。