近藤先生Vol.7:いじめ解決の定義について(1)「司法による解決」と「教育としての解決」

2017.02.03

平成28年10月に公表された文部科学省の「平成27年度児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」(速報値)によれば、全国の小・中・高・特別支援学校における「いじめの認知件数」は全国で224,540件に上っています。そのうち学校が「解決しているもの」と判断しているものが88.6%、「一定の解決が図られたが継続指導中のもの」としているものが9.2%、「解決に向けて取組中」1.9%、「その他」0.3%となっています。

さて、ここで使われている「解決しているもの」とは、どのような状態を基準に判断しているのでしょうか。この点については、同調査の公表文書には記載がありません。そこで、このコラム欄の2回連続の構成で、発生したいじめに関する「解決」とは何かについて考察し、定義してみましょう。

いじめが発生した場合、気付いた教師や保護者等が指導に取り組み解決を図ろうとします。おそらく全国の学校において、教師や保護者、カウンセラーなど、関係者が連携して取り組み、解決に導くべく多くの努力が払われていることと思います。しかし、そうした努力にもかかわらず当事者である子どもたちが口をつぐみ、被害や加害の内容について話そうとしない事例も多く見られます。また、教師や保護者など大人達の前で、子どもたちが“ごめんなさい。もういじめたりしない”、“うん、わかった”などと相互にやりとりし、大人達が「これでいじめはなくなり、もう安心だ」と胸をなで下ろす、そんな場面もあるのでしょう。ところが、指導の甲斐もなく、ネット上など、違った態様でいじめが再発し、さらに見えにくい形で継続してしまう、そんな事例も見られます。そして、解決に結びつかなかったいじめが、子どもの自殺や深刻な不登校状況など、悲しく不幸な状況を生み出してしまうこともまた事実です。いじめによる自殺事件などでは、マスコミで大きく報道され、社会的事件として認知されて、学校だけでなく行政を含めた種々の対策が講じられていきます。そうした中、被害者側からの損害賠償請求がなされて司法判断による解決が図られるケースも見られます。

司法の場においては、どのような解決が模索されるのでしょうか。そこでは関係当事者の子どもたちの日常のかかわりや人間関係の実態、関係する各家庭の育成の状況や指導力、学校の指導状況や体制、指導の効果性や適切性などが一つひとつ根拠を上げながら吟味されます。それぞれの子どもの加害行為の質や相手に与えた衝撃の度合い、そして、子どもたちの行為が共同不法行為に当たるかどうかの認定等が細かく吟味されます。さらには、自殺にかかわる予見性については、どの時点で関係者が予見可能であったかなど、学校はもちろん、関係した子どもたちや保護者、自殺した子どもの保護者等に対しても吟味され、その責任の程度が検討され、判断されます。こうした吟味の中では、自殺した子ども自身の問題解決への対応や人間関係に関する問題点を指摘して当事者責任を問う場合や、自殺した子どもの保護者の養育姿勢や注意監督不履行等の問題を指摘する場合なども出てきます。司法判断として加害者・被害者間での過失相殺による賠償額の減額などが行われることもあります。こうした経過を経て、加害者や学校(自治体)をはじめとする関係者それぞれの責任範囲が明示され、その度合いに応じた賠償額等の決定がなされて、司法としての解決が図られます。

このような状況を見れば、司法としての解決は重要ではあるものの、あくまでも最終的なやむを得ない方法と位置づける必要がありそうです。こうなる以前に、いじめをいかに早く認知し、学校や家庭・関係機関等が適切に対応して教育効果を上げることが望まれます。そして、関係するすべての子どもたちを、個として、集団として成長させることのできる「教育としての解決」の必要性が強く自覚されるのではないでしょうか。

次回のコラムでは、求められる「教育としての解決」とは何か、「解決」とはどのようなことが達成された状況をいうのかについて考え、その定義を明確にしたいと思います。