松本先生Vol.7:工藤直子の詩による読みの交流の学習(3)

2016.02.12

工藤直子の講演から

工藤直子の講演を聴く機会を得た。(全国小学校国語教育研究会新潟大会二〇一五・一一・二七 新潟市・朱鷺メッセ)そこで改めて詩を読むことの意味について考えさせられた。
工藤直子の講演の骨子は以下のようなものである。

小学校一年生の時に聴いた担任の読み聞かせ(十五少年漂流記など)は、その時にはちゃんと聞いていなかったが、今でも体には入っている。授業は、そうやって残っていくものだ。
声で、詩を伝えることが大切だ。「おれはかまきり」は、かまきりりゅうじの詩。活字読みの朗読もいいが、表現としての読み方は自由。かまきりりゅうじのイメージを浮かべて読む。小学校一年生の元気いっぱいか、高校一年生でくたびれてるけどかっこつけてるのか。じいさんかまきり。奥さんかまきり。方言かまきり。(それぞれ実演)言葉遣いも変えて読んでかまわない。枕草子風のはらうたなど、さまざまなバリエーションが授業で生まれている。自由に遊んでほしい。
読者が感じたものはその読者のもの。好きになった作品はその人の作品。自由に書き換えて良い。「あいたくて」の詩で、会いたい人も読者それぞれ。工藤直子に書かせた自分の詩と思って、使い倒してほしい。

詩を読むということは「わたしの声」で読むということである。これは小説や物語より遙かにそうであろう。もともと、詩が音読によって享受されてきた意味がそこにある。