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アルベルト・シュヴァイツァー

2016.10.11

アフリカでの医療活動に生涯を捧げ、その功績でノーベル平和賞を受賞

医師、神学者、哲学者、オルガニストであったアルベルト・シュヴァイツァーは、アフリカの赤道直下に位置するガボン共和国のランバレネでの医療活動に生涯を捧げ、その功績により1952(昭和27)年にノーベル平和賞を受賞。「密林の聖者」と呼ばれた。また、哲学の分野においても「生命への畏敬」という概念のもと世界平和に貢献した。なお、シュヴァイツァーは、シュヴァイツェルやシュバイツァーとも表記される。

1.シュヴァイツァーと玉川学園

玉川学園創立者小原國芳は、シュヴァイツァーの功績について礼拝などの時間に学生や生徒たちに語った。やがて、学生や生徒たちからの提案で、幼稚園から大学までの礼拝献金を貯めて、シュヴァイツァー病院に建物を1棟贈ろうということになった。その申し出に対してシュヴァイツァーより、建物はほぼ揃えることができたので、できれば世界的に有名な日本の顕微鏡がほしいという要望があった。そして、当時世界最高級といわれた日本製の顕微鏡を贈ることが決まった。1963(昭和38)年4月30日に贈呈式を行い、来園したシュヴァイツァーの令嬢であるレナ・エッケルトにその顕微鏡を贈呈した。

顕微鏡贈呈式
小原とレナ夫人
贈呈された顕微鏡

贈呈式を仲介したのはシュヴァイツァー病院のハンセン病棟でライ病治療に従事していた高橋功。高橋がこの病院に勤務していたのは、シュヴァイツァーの晩年にあたる1958(昭和33)年から1965(昭和40)年までの間であった。後に高橋はシュヴァイツァーの遺品を携えて日本に帰国し、その遺品のほとんどを玉川学園に寄贈。1971(昭和46)年6月のことであった。現在、シュヴァイツァーの関係資料は教育博物館に、関係図書は教育学術情報図書館に所蔵されている。

教育博物館では、シュヴァイツァーの関係資料の一部を常設展示している。実際に展示されているものは、シュヴァイツァーが小原に宛てた書欄、シュヴァイツァーの写真や手型、筆記用具をはじめとする愛用品などである。

ペン、定規、ペーパーナイフ等筆記用具
シュヴァイツァーの手形

2.シュヴァイツァーの略歴と功績

アルベルト・シュヴァイツァーは、1875(明治8)年1月14日にドイツ領だったアルザスで生まれた。シュヴァイツァーは、5歳のときに牧師だった父親からピアノの手ほどきを受け、7歳のときには学校で自作の歌詞を付けた聖歌をオルガンで弾き、教師を驚かせた。8歳になってパイプオルガンを習い始め、9歳のときには教会での礼拝で、パイプオルガンの代表を務めた。学校の教師であった祖父がパイプオルガン弾きでもあり、その才能を受け継いだ。やがて15歳の年からパイプオルガン手の音楽教師に、大学入学の年からはパリのパイプオルガンの巨匠から指導を受けた。

比較的裕福な家庭に生まれ、幸せな日々を過ごしてきたシュヴァイツァーは、その恩恵を他の人たちに分かち与えるべきではないかと考えるようになった。当時はまだ21歳で学生であったため、今は勉学に励み、キリストが布教活動を始めたといわれる30歳になったら人に奉仕する活動を行おうと決心した。そして、ストラスブール大学において神学博士・哲学博士の学位を取得した。その後、27歳で母校ストラスブール大学の神学科の講師となった。また、聖ニコライ教会の副牧師、トマス神学校の寮長を兼任した。

シュヴァイツァーは30歳になろうとしていた1904(明治37)年の秋のある朝、机の上に置いてあったパリの宣教師協会の活動報告を載せた冊子を読んで、長い間の植民地で生活は厳しく、病気に苦しんでいたアフリカのガボンの実情を知った。シュヴァイツァーは、30歳になったら人に奉仕するという決意を思い出し、医師になってガボンへ行く決心をした。そのため、ストラスブール大学の医学部に入学、38歳の時に医学博士の学位を取得した。そして、自らの著作の印税や演奏会活動での収入を資金として、医療施設に困っていたアフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネへ、前年に結婚したヘレーネと共に旅立った。1913(大正2)年3月26日のことであった。現地での医療活動は、鶏小屋での診療で始まった。やがて、ナマコブリキの小さなバラックである診察小屋ができた。さらに少しずつこの建物の周りに患者を収容する竹小屋ができ、熱帯病や寄生虫病、ハンセン氏病患者をはじめ、内科・外科的治療を求める人たちが行列を作った。

しかし、翌年、第一次世界大戦により、医療活動は中断。フランス領ガボンにいたシュヴァイツァーはドイツ国籍であったため捕虜となった。ある日、宣教師からの依頼で、軍の許可を得て往診に向かった。その道すがら、自然の中で悠々と生活する動物を見たシュヴァイツァーの頭の中に、「生命への畏敬」(命を大切にすること)という言葉が閃いた。シュヴァイツァー、41歳のときであった。この概念を抱いて、後に世界平和にも貢献した。

シュヴァイツァー博士

1918(大正7)年、交換捕虜として捕虜たちは故郷への帰還が許された。シュヴァイツァー夫妻も戦争により荒廃した故郷へと戻った。体調を整えた後、シュヴァイツァーは、スウェーデン、スイス、イギリス、オランダ、ベルギーなどヨーロッパ各地で公演を行うようになり、一躍有名人となった。5年後、そのおかげで、ランバレネでの莫大な借金の返済や、再度ランバネラを訪ねるための資金が調達できた。1924(大正13)年2月14日にシュヴァイツァーは夫人を残したまま単身でランバネラでの医療活動に戻った。病院はほとんどが倒壊していた。残っていたのはナマコブリキの小さなバラックである診察小屋と、竹小屋の骨組みだけであった。シュヴァイツァーは診察小屋の修復と、倒壊した小屋の再建をしながら診療を行った。飢餓と赤痢の流行で患者は増える一方であった。赤痢流行のため、隔離室のあるもっと広い病院が必要となり、シュヴァイツァーは、ヨーロッパにいる友人たちからの寄附で新たな病院建設のための資金を調達した。さらに3人の同僚に病院を任せて、新しい病院の建築を行う有志の労働者の監督に専念し、ついに、1927(昭和2)年に新しい病院を完成させた。また、病院の周囲にエデンの園を作り、食料を確保した。

やがて優秀なスタッフが増え、助手らにも診療を任せられるようになった。そこで、シュヴァイツァーは同僚に病院を委ね帰国した。帰国してからの2年間は、資金調達のため、ヨーロッパにおける講演旅行や演奏会活動に日々を費やした。1929(昭和4)年、シュヴァイツァー夫妻は再びランバレネへ向かった。到着後1年かけて、病舎や食料貯蔵のための倉庫などを建てた。やがて必需品を十分備えた手術室やさまざまな薬品を備えた薬局もでき、また診療に十分対応できる医者と看護婦を置くこともできるようになった。

シュヴァイツァーは、このアフリカでの献身的な医療奉仕活動が認められ、1952(昭和27)年にノーベル平和賞を受賞した。その賞金の半分を使いシュヴァイツァー賞を制定し、2年に一度、平和活動に貢献したヨーロッパの人たちに賞金を贈呈した。残り半分は、ランバレネのシュヴァイツァー病院の隔離病棟等の建設に充てた。

1957(昭和32)年及び翌年には、核兵器への反対、核実験の中止をラジオ放送を通じて訴えた。そして、1965(昭和40)年9月4日、シュヴァイツァーは90歳の生涯を閉じ、同地に埋葬された。

シュヴァイツァーは音楽にも精通し、バッハ研究でも有名であった。また、上述のとおりオルガン奏者としてもかなりの実力があり、若き日にはパリのバッハ協会のオルガニストを務め、晩年に至るまで公開演奏を行っていた。音楽研究家としての著作には『バッハ』などがある。

そのほか、思想家として『カントの宗教哲学』、神学者として『イエス伝研究史』、またアフリカの滞在を記録した回想記として『水と原生林のはざまで』などの著作がある。

参考図書

『全人』166号(1963年6月号) 玉川大学出版部 1963年
『全人』194号(1965年10月号) 玉川大学出版部 1965年
『全人』264号(1971年8月号) 玉川大学出版部 1971年
『全人』751号(2011年6月号) 玉川大学出版部 2011年
館蔵資料目録『シュヴァイツァー関係資料』 玉川大学教育博物館 1995年
高橋功著『アルベルト・シュヴァイツァー』 高橋功著作刊行会 1989年
アルベルト・シュヴァイツァー著、竹山道雄訳『わが生活と思想より』(自叙伝)白水社 1939年
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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