玉川学園機関誌『學園日記』

2018.05.16

玉川学園機関誌『全人』(毎月発行)の創刊時の誌名は『學園日記』。学園創立の年に誕生した『學園日記』は、『全人』等に誌名を変えながらも玉川学園の歴史と共に歩み、現在も玉川学園の教育、研究の実践および成果を記録し伝えている。

1.『學園日記』の誕生

玉川学園創設の1929(昭和4)年6月25日に、機関誌『學園日記』が創刊された。玉川学園における教育、研究の実践および成果を記録し伝えることが目的。創刊号はA5判で全84ページ。創刊時の購読料金は、一部20銭、半年間購読が1円10銭、1年間購読が2円。『學園日記』の創刊について、『ZENJIN』第636号の「故きを温ねて」に次のような記述がある。

昭和四年六月二五日。玉川学園の機関誌『學園日記』が創刊された。小原國芳は「私学に身を投じた当初から、『出版』と『機関誌』は私学経営に不可欠と考え、実践してきました」と『教育一路』(日本経済新聞社)で述べている。戦時中は中断したが戦後すぐにザラ紙で再刊。困難な時でも機関誌は小原國芳が求める「真(まこと)の教育」「本物の教育」を推進するための役割を常に担ってきたのである。

また、『學園日記』の誕生については、『學園日記』創刊号に國芳が「『學園日記』の生れましたわけ」というタイトルで次のように記している。

同人はじめ、少年たちの甲斐甲斐しい働きぶりを見ますと私はホントにほゝえまずには居れませぬ。今度こそは、何だかホンモノに近いものが生れるのではないかと胸がぞくぞくいたします。
       (略)
このうれしい昨今の出來事を何だか、自己廣告のやうですけれども、記録しておきたくてたまりませぬ。
       (略)
もしか、やがて、同じ計畫を立てなさる方なり、小さくは學級經營なり、文庫經營なり、更に、同じホントの教育の道を開拓しようとさるゝ方々へ、僣上ではありますが、些しでもお参考にでもなりましたら、何よりの幸と思ひますので、この「學園日記」は生れました。

さらに『學園日記』創刊号に次のような記述があり、当時、活字組みも印刷も学園内の労作として行われていたことを物語っている。

「學園日記」の第二號からは、ゼヒ自分たちの汗で出來かしたいと、塾生たちは力んで居ます。

2.「學園日記」創刊号

【「學園日記」創刊号目次】
少年たちに告ぐ(一) 新しく學園の生れましたわけ 小 原 國 芳
學園日記抄 塾     生
村の第一夜 書 上 喜太郎
玉川のうた 田 尾 一 一
同人のことば  
學園漫談 伊 藤 孝 一
同人紹介 齋 藤 由理男
新しき友に感謝す―市川君と岡上村靑年諸君へ― 伊 藤 孝 一
私たちの生活(一) 小 原 國 芳
松の風 松 本 未知人
塾生募集、その他  
勞作教育の問題(一) 小 西 重 直
玉川學園に寄す 本 間 俊 平
編輯室  

創刊号には、玉川学園誕生に向けた國芳の決意や、玉川学園村へ移住してきたときの第一夜の様子をはじめ、「玉川モットー」や「校歌」の誕生に関する記述などが掲載されている。


「少年たちに告ぐ(一) 新しく學園の生れましたわけ」の中で國芳は次のように述べている。これが「玉川モットー」の原形となっている。

己れを捨てることは、ホントの自分が生きることなのだ。
      (略)
喜んで、困難を友としてよ、微笑を以つて辛苦を迎えてよ。やろうよ。何とかして、この社會を建てかへねばならぬではないか!打算と功利とから離れて、喜んで損をする人間になつてよ。最も苦勞の多い場面を眞先に選んでよ。
      (略)
「人、汝に一里の行役を強ゐなば彼と共に二里を行け」だ。一杯の水を汲む時に二杯汲んで上げ、花を上げる時に根までつけて上げろよ。

「村の第一夜」には、玉川学園創設に向けて國芳たちが玉川学園村に移住して来たときの様子が、以下のように記述されている。

玉川學園村草分けの先發隊として、小原先生初め伊藤先生、松本先生の三家族、それに獨身の先生方や若い塾生たち、併せて二十餘名がいよいよ移住して來たのは三月三十一日であつた。それは、まことに移住と云ふにふさわしかつた。まだこの日は小田急の玉川學園前驛も開業してゐないので、荷物は砧村からトラツクの行列が多摩川二子の橋を渡つて走り、人は鶴川かまたは原町田の驛から、いづれも二十五六丁の道を歩いて村に入つた。小さい子供たちは、父や母の手に引かれて山を越え、子供として初めての長距離行軍に、よくぞ「おんぶ」もねだらず強く歩いて來たと皆にほめられた。
        (略)
殊に食後一時間にわたる小原先生のお話は熱情溢れ、一同を感激に誘はずには置かなかつた。「・・・諸君、新しい日本を動かすべき力はこゝから生れなければならない。いや必ず生れると僕は信ずる。やらうと思へば出來るんだ。山よ來よと、山に命じたマホメット程の信念があれば、未來は必ずわれわれのものだ。歴史を造ると云ふのはこのことを云ふのだ。なあ、諸君。やらうぢやないか。一九二九年の三月三十一日と云ふ日を、世界歴史の一頁に、必ず書き落すことの出來ない日としようぢやないか。」
若い塾生たちは殊に涙を浮べ拳をにぎりしめて聞いてゐる。「・・・人間はその人間だけの仕事しか出來やしない。だがほんとうに眞劒にさへなれば、神の啓示が僕等を導いてくれるんだ。
僕等がこれからなしとげる仕事の大小は、恐らく今夜の決心の大小によつて殆んどきまるだらう。さあ、めいめいの心の中にある決心を、神の前に誓はうぢやないか。」

1列目左端が田尾一一、左から3人目が伊藤孝一、5人目が小原國芳、
7人目が齋藤由理男、その右後ろが鰺坂二夫、伊藤の右後ろが岡本敏明、
3列目左端の眼鏡をかけているのが松本三千人、田尾の右後ろが靑野賢三

「同人のことば」の「1.私の願」(靑野賢三著)に次のような記述がある。

吾等は全人教育の旆印を掲げて敎育刷新の爲に精進したい。一言一行の末にも、至誠と敬虔の閃を見たい。個人に對しても共力と同情の發露を認めたい。趣味を解し研究を好む人間的頴智の萠芽を持せたい。自主獨立自ら努めて勤勞し、堅忍不拔、自己の責任を重じ、正義の爲に所信を屈げざる底の意氣ある少年を作りたい。

同じく「同人のことば」の「4.作曲のあとに」(岡本敏明著)に、田尾一一が作詞した「玉川学園校歌」の歌詞に岡本が曲をつけたときのことが次のように記されている。

私は直に原稿を持つてその時の事務所であつた松本先生のお宅を飛び出して、聖山の中腹に立ちました。黃昏が私の周圍を取巻かうとする時、間もなく我等が學び舍となるべき新しい校舍に呼びかけるようなつもりで、聲高く歌ひ出したのです。
    空高く野路ははるけし
    この丘に 我等はつどひ
    わがたまの 學び舎もらん
旋律は聖山の空氣を振はして、何のこだはりもなく、たやすく流れ出たのでした。
二度三度と繰り返して歌つてゐる中に、私はこの歌に初めからこの曲がついて居つたような氣がして來ました。これは、詩と曲とが完全に融け合つたためなのです。私は早速駈戻つて、手製の五線紙に今のメロディを書き込んだのです。

3.『學園日記』のその後

『學園日記』は、創刊された1929(昭和4)年の10月に『イデア』を吸収し、1932(昭和7)年3月からは『労作教育研究學園日記』に改題された。そして、1934(昭和9)年6月から発行された『教育日本』に受け継がれていった。一方、1932(昭和7)年5月から『女性日本』を刊行。この2誌は、1939(昭和14)年1月に合体して『全人』となった。機関誌『全人』は戦時中の1943(昭和18)年6月より休刊となり戦後の1946(昭和21)年1月から再刊された。その後、名称は『全人教育』や『ZENJIN』に改称され、現在の『全人』になった。このように名称の変更、体裁や内容の改訂はあったが、一貫して玉川学園の教育、研究の実践記録としてまとめられ刊行され続けている。

2018(平成30)年4月10日発行の「全人」は826号となっている。これは、「全人教育」から「全人」に機関誌名が変更となった1949(昭和24)年4月号からのカウントである。

関連サイト

参考文献
  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
  • 小原國芳監修『學園日記』第1號 玉川學園出版部 1929年
  • 小原芳明監修『全人』第800号 玉川大学出版部 2015年
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて』(『ZENJIN』No.636 玉川大学出版部 2001年 に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川學園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川學園五十年史写真編』 玉川学園 1980年