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田尾一一(たお かずいち)

2018.05.28

1.田尾一一と玉川学園

田尾一一は1896(明治29)年11月18日生まれで、玉川学園創立者小原國芳の香川県師範学校時代の教え子の一人。田尾は香川県師範学校卒業後、広島高等師範学校に進学。卒業後は小樽中学校や成城中学校で教える。さらに東北帝国大学に入学して、ドイツ文学、哲学、美学等を専攻する。卒業後は旧制成城高等学校教授として赴任。

さらに玉川学園創立当時より1934(昭和9)年にかけて、玉川学園中学部、専門部の教頭を歴任する。戦後になり、東京藝術大学の学生部長、音楽学部長、音楽学部附属音楽高等学校長を務める。1957(昭和32)年から1961(昭和36)年までは玉川大学文学部講師、その後明星大学教授。1984(昭和59)年2月5日逝去。

左から、田尾、西田幾多郎、小原(昭和7年)

2.玉川学園校歌の誕生

田尾は、1929(昭和4)年4月4日に玉川学園校歌が誕生した時の経緯について、次のように語っている。

昭和4年の3月だったと思います。当時成城学園にあった小原先生のお宅の応接間兼食堂に小判型のテーブルがあって、それをとりまいて、毎夕新しい学校の構想をめぐって、先生の考えをうかがい、そして語り合い、検討を重ねていました。多くの場合、そこに列していたのは、伊藤孝一先生、高井望先生、それから私田尾の三人でした。
こうした中で「玉川」という校名も決まり、労作教育、個性尊重の教育、宗教教育の基本的な方針が固まっていったわけです。このような雰囲気の中で話し合ううちに、校歌を作ろうということになって、私に歌詞を作るように要請されたのでした。
この話の出た日の夕方、私は先生のお宅を辞して帰る途中、歩きながら構想を練りました。当時私の家は、先生のお宅から十分あまりのところにありました。新しい学校、玉川学園の生きて動いているような、そんな気持ちで考えているうちに、歌詞の大方ができあがったのでした。

そして、田尾が手がけた歌詞にメロディを付けたのが、岡本敏明だった。玉川学園創立の年に東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)高等師範科を卒業したばかりだった岡本は、玉川学園の音楽の教員として採用される。そして1929(昭和4)年4月4日の玉川学園創立準備職員会の席上で、小原國芳から「8日の入学式に間に合わせたいので、できればこの会議中に作曲してほしい」と田尾による歌詞を渡され、ピアノも何もない松林の中を散策しながら一時間ぐらいで作曲したのだという。

岡本はその時に渡された田尾の歌詞について、玉川学園機関誌『學園日記』第1號(1929年6月発行)の「同人のことば」の項で、「作曲のあとに」というタイトルで、岡本自身が以下のように記述している。

小藤おぢさんから「元氣のいゝのを」といふ注文で校歌作曲の依頼をお受けしたのが四月四日の夕方。勿論新参の私でしたので作歌者田尾先生を知るよしもなかつたのですが、歌詞を通して、眞摯な人格者としての田尾先生の風?(ふうぼう)を想像するに難くはありませんでした。
作曲する者が、詩から何のインスピレーションも受けないでは、全然作曲して見やうといふ衝動さへもおこらない。私は田尾先生の歌を一讀するに及んで、すつかり感激してしまつて、校歌を作曲せねばならぬといふ責任感さへも忘れて、その力強い、しかも宗敎的香りの高い名歌に全く魅せられてしまひました。

1929年(昭和4年)の校歌 ト長調で書かれていた

田尾は後日、校歌について、次のように述懐している。

校歌は民謡などと類する性質のもので、叙情詩のように主観的ではありません。だんだん歌われているうちに、多くの人の歌になり、ますます客観性を得てくる性質のものです。

3.校歌に託された想い

こうして誕生した校歌は、まさに玉川の丘で理想の教育を始めようとする小原國芳の、「勉強すること、働くこと、信ずること」という新学園の基本構想、新しい学校への想いがあらわされた一曲となった。一番の「空高く……」では、聖山の頂から相模平野を見下ろしての風景が表現された。また二番の「星あおき……」では、朝のうちは勉強と読書、午後は労作によってバランスの取れた人間教育を行うといった意図が読み取れる。そして三番の「神います……」ではキリスト教のみならず、日本の神にも通じるようになっている。

田尾一一

多くの神話で神が天地をつくった。「この神の末裔がわれわれ人間である」と、田尾は後年語っている。
そしてこの校歌は、玉川学園関係者以外から高い評価を得ている。講談社が1982(昭和57)年5月に出版した『日本の唱歌』は一般的な唱歌に限定せず、寮歌や応援歌、校歌なども取り上げた唱歌集となっているが、この「あとがき」の中で編者である金田一春彦が次のように記述している。

誰でも、自分の学校の歌を愛します。と言って、寮歌・校歌を片っ端からあげることは出来ません。それで、かりにその範囲を、その学校の学生でない人でも知っていて、歌うことのある学校歌ということに限定しました。(中略)単に音楽的にすぐれているというならば、ここにあげた歌以上の歌もたくさんありそうです。たとえば編者の一人の好みで言うなら、玉川学園の校歌などは、日本一の校歌ではないかと思ったりいたします。

4.機関誌「全人教育」(第299号)に掲載された田尾の「小原先生米寿祝賀会に参向して」より(抜粋)

田尾(左)と小原

五月二十六日、小原先生米寿祝賀会に参上する。朝十時すぎ、学園の池の側に立つ。池の中に差し出た松の幹が太くなって亀の甲のように力強く蟠っているのに感心して、しばらく佇む。歳月が経ったのである。
学園の正門に「一日不作、一日不食」の語を見る。これは唐代百丈禅師の語で、学園草創の頃、始終われわれの頭を往来したものである。
労作の意味であるが、それはケルシェンシュタイナーの言うアルバイト即ち労作であるが、アルバイト(Arbeit)は人間行動であって、単なる活動以上のものを含んでいる。即ち活動は精神の象徴である。
百丈の語もまた活動を意味するが、その内面には深い禅の信仰が支えていて、ドイツのアルバイトに勝る広大な世界を暗示している。
この百丈の語「一日不作、一日不食」は、玉川学園とともに永存することが期待される。
礼拝堂のあたりは、折からの快晴に、成長して枝ぶりのよくなった楓などの若緑が色映えて美しい。伊藤孝一君、納谷友一君、岡本敏明君などとともに着席。この礼拝堂は昔ながらにつつましやかであって、新教の会堂にふさわしい。往時にくらべて何所ともなくさびができていることも奥ゆかしい。
   (略)
漸くにして小原先生がお見えになる。心配するほどもなく、例の如くお元気である。医師の指定という三分間のお話。「こういう盛んな同窓会は他になかろう」、と言われる。その通りである。また、学園は良い先生を迎えねばならないと言われる。大事なお言葉である。先生は二三十分で退場される。
   (略)
われわれが先生に接するごとに感じるある貴いものがある。そして何かに酔ったように余韻が残る。そういう力が先生の中に存在するのである。「生まれながら」の御性質である。それが説教となり、音楽となって、玉川の丘に浸透するのであると言えよう。これが玉川の生命であるとも言えよう。

参考

「玉川学園校歌」の他に「玉川学園体操歌」も田尾の作詞である。また聖山にある小原國芳の胸像の石台の文字も、田尾が揮毫したものである。

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳編『全人』第197号 玉川大学出版部 1966年
  • 小原芳明編『全人』第760号 玉川大学出版部 2012年
  • 小原國芳監修『學園日記』第1號 玉川學園出版部 1929年
  • 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌(下)』 講談社 1982年
  • 石橋哲成著『「全人教育論」-講義資料集-』 2007年
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて』(『ZENJIN』第635号 玉川大学出版部 2001年 に所収)
  • 白柳弘幸著『玉川の丘めぐり』(『全人』第760号 玉川大学出版部 2012年 に所収)

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