玉川学園前史

2013.03.21

玉川学園はいかに誕生したか

調和のとれた人間形成を目指す学校を、自らの手で、一からつくりたい――小原國芳が「夢の学校」建設に着手したのは、成城高校の校長を務めていた42歳のときであった。それまでは、成城教育の充実、発展、完成、延長に取り組んでいたが、当時の成城学園が第一義としていたのは、帝国大学への入学を前提とした予備教育、すなわち受験教育であった。

対して、小原國芳が理想としたのは、「労作教育の使命を果たすこと」「徹底した真人間の教育を行うこと」を重んじた教育であった。結果的には、彼が思い描いた「夢の学校」は成城学園から独立し、1929(昭和4)年、玉川学園として産声を上げることとなる。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。

「玉川を創めたのは(あの半生の生命がけの成城を捨てて)、全く、一層のホンモノを造り出さんがための精進です。殊に、無一文からの出発。資金調達、土地まとめ、道路開墾、分譲、建築……出版。保険募集、演劇、音楽会、舞踊会。いろいろの事業は自ら生きた産業教育であり、技術教育であり、何よりの労作教育でした」

こう國芳が述べたように、学園建設は無一文からの出発であった。多額の借金をして、東京府南多摩郡町田町本町田(現在の町田市内)周辺に30万坪の土地を手に入れ、小田急電鉄と交渉し、駅敷地及び駅舎を提供して小田急線「玉川学園前駅」を新設することを確約してもらい、財団法人「玉川学園」を設立。幼稚園、小学校、中学校の新設認可のための請願書の作成、校舎や職員住宅兼塾舎の建築など、小原國芳の陣頭指揮の下、教職員たちは限られた時間のなかで、獅子奮迅の働きをすることとなる。

学園建設予定地の本町田は、東京府と神奈川県の県境にあり、村の中学生は遠方の学校に通学していたため、玉川学園の開設を地域住民は心待ちにしていたようである。校舎上棟式の餅まきには大勢の村人が集まり、隣村の青年団が楽隊を編成するなど大勢の人々の素朴な祝福のうちに、玉川学園は誕生した。

1929年3月31日、小原國芳の家族をはじめ教員の3家族や若い塾生など、あわせて20余人が玉川学園村に移り住んだ。それは文字通り、移住というにふさわしかった。まだ玉川学園前駅も開業していないので荷物はトラックで、小原國芳らは長い道のりを歩いて村にたどりついた。新校舎を建設しているとはいえ、山林も同然の土地であり、それまでは村の小学生がはるばる遠足に出かけるような場所であった。
この日を境に、玉川学園村には夜、数軒の家に明かりが灯り始める。國芳は最初の夜、皆で食卓を囲み、次のように語った。

「諸君、新しい日本を動かすべき力はここから生れなければならない。いや必ず生れると僕は信ずる。(中略)なあ、諸君。やろうじゃないか。1929年の3月31日と言う日を、世界歴史の一頁に、必ず書き落すことの出来ない日としようじゃないか」

翌4月1日には、玉川学園前駅が開業する。4月4日、開校式を目前にして、田尾一一(かずいち)による作詞で、岡本敏明の作曲による玉川学園校歌も誕生した。岡本は初めて田尾の歌詞を目にしたときに「力強い、しかも宗教的香りの高い名歌」に感激し、校歌を作曲するという責任感も忘れてしまうほどだったという。そして、歌詞の原稿を持って聖山に向かうと、瞬く間に曲がひらめき、すぐに完成した校歌は小原國芳と教職員の前で披露された。それから教職員は4日後の開校式に備えて、校歌を歌いこなそうと連日連夜、練習を重ねた。

4月8日には開園入学式が執り行われた。幼稚園児8人、小学生10人、中学生80人、塾生13人。全員で生徒数は111人。新築の校舎には木の香りが満ちており、新入生とその親たちが希望を胸に続々と集まってきた。地域住民も大勢、祝福に駆けつけたという。

小原國芳は入学式で、教育のために先祖伝来の土地を提供した地主や関係者に感謝の意を述べ、「ここは東京からかなり離れているので、生徒が少ないと思っていたが、思いのほか多数の入学者があって感謝している」と語った。新入生たちには「この大自然につつまれている環境を喜んでほしい。しっかりした身体、清い心、ほがらかな心、強い心、大きな望、温かい友情を望む」とエールを送った。

参考文献
玉川学園編『玉川教育―1963年版』玉川大学出版部 1966
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980