財団法人玉川学園

2013.06.21

1929(昭和4)年当時の写真聖山東面の玉川の丘
創立当時の学園の様子
松陰橋
玉川学園前駅の前の道
駅前のメインストリート(駅北口側)

「夢の学校」玉川学園を開校する際、小原國芳が最も苦慮したのが、土地の選定であり、建設のための資金確保であった。小原國芳が理想的な土地を探してあれこれと物色していたころ、25歳以上の成年男子を対象とした第1回普通選挙(1928(昭和3)年2月20日)が実施された。

それに先立ち、小原國芳は後に農林大臣となる政友会山崎達之輔氏の応援演説のために福岡を訪れる。その選挙事務所で偶然、東京府下南多摩郡忠生村(現・町田市)出身で、土地問題に精通した坂倉正二氏と出会い、本学の現在地を学園建設予定地としてとりまとめてもらえるよう依頼したのだ。

当初から國芳は「玉川学園前駅」を新設することを前提にしていたようで、新宿~小田原間で、駅間が3マイル(4.8キロメートル)以上離れている場所を探していた。鶴川、新原町田(現・町田)間は、駅を新設するための認可が下りる約3.5マイル(5.7km)以上離れており、しかもその土地のなだらかな武相丘陵地帯の美しさは、かねがね小原國芳の心を惹きつけ、密かに狙いをつけていたものらしい。

坂倉氏は國芳の依頼を受け、土地の有力者や地主らと折衝を進め、30万坪の建設予定地を手に入れるための段取りを着々と整えていった。一方、國芳は土地の買収資金を得るために奔走する。1928年秋、國芳は王子製紙の井上憲一氏の仲介で、講談社の野間清治社長と面談し、新しい学園建設計画を30分にわたって熱く語り融資を依頼。野間氏も小田急に新駅ができれば土地経営としても十分に有望であると判断し、自分の資産から45万円の融資を承知する。なお、借款の保証人として、日本石油専務の津下紋太郎氏らが立った。

すぐさま、小原國芳は土地の登記に着手し、その年の暮れには登記が完了する。そして、小田急社長利光鶴松氏と交渉し、駅敷地および駅舎建築の提供、売上金の保証を条件に「玉川学園前駅」を新設することの確約を得る。

同時に、財団法人「玉川学園」を設立。幼稚園、小学校、中学校の新設認可の請願書を作成し、教職員を集め、校舎および職員住宅兼塾舎を建築するなど、小原國芳の陣頭指揮のもと、高井望、松本三千人の両氏が手足の如く活躍した。翌1929年3月1日、財団法人玉川学園および玉川中学校が認可された。


参考文献
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980
『財団法人設立認可申請書』