北原白秋

2014.03.19

誰もが知る童謡作家と玉川学園の、意外な接点

 青雲はれて そよぐこずえ
 見よ朝だ 風が笑う
 フレフレ玉川
 飛べよ走れ われら
 風と走れ 玉川フレフレ

この歌詞と共に、秋の青空の下で行われた運動会(現在の体育祭)を思い返す玉川学園の卒業生は多いだろう。ただ、この運動会歌の正確な名称は「成城学園運動会歌」である。この歌の作曲を担当したのは玉川学園校歌や「どじょっこ ふなっこ」で知られる岡本敏明。そして作詞は、童謡作家の北原白秋(きたはらはくしゅう)。成城でも玉川でも歌えるように作詞され、成城では「フレフレ成城」、玉川では「フレフレ玉川」と歌われた。1933(昭和8)年10月15日、玉川学園の運動会の観覧席では、北原白秋が「フレフレ玉川」の歌詞でこの歌を聴いたのである。

北原白秋といえば明治から昭和にかけて活躍し、「からたちの花」や「ペチカ」などで知られる詩人・歌人・童謡作家だ。その一方で北原は、数多くの校歌や応援歌の作詞も手がけていた。また彼が活躍した時代は、大正自由教育運動が勃興した時期でもあった。それまでの教師中心の注入主義的な旧教育から、子どもの関心や感動を大切にする教育へ。当時、そうした理想を掲げて設立された学校は数多く、玉川学園もその一つといえる。同じような動きは文芸の分野でも顕著であった。象徴的な出来事が、日本における児童文化運動の父とされる鈴木三重吉による児童文芸誌「赤い鳥」の創刊。1918(大正7)年のことである。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「杜子春」や有島武郎の「一房の葡萄」、新美南吉の「ごん狐」などの文学作品も、この赤い鳥に掲載されて世に出た。そしてこれら文学作品と同様に、社会から大きな反響を呼んだのが童謡だ。当時の唱歌や説話は政府によって作られたものであり、そこからは子供の素直な心や芸術的な香気は感じられなかった。そうした中、赤い鳥で「からたちの花」を発表したのが北原白秋だった。北原らが発表した童謡の数々は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになり、一大潮流となっていく。現在、私たちが童謡と認識している曲の数々は、この時期に作られたものが少なくなく、まさに童謡の黄金期といえるだろう。北原白秋は、その中心人物の一人であったのだ。ちなみに日本童謡協会が1984(昭和59)年に7月1日を「童謡の日」と定めたが、これは赤い鳥がこの日に創刊されたことによる。

北原白秋と玉川学園の結びつきは強く、小原の教育哲学に共鳴した白秋は、当時小原が校長をしていた成城学園に2人の子供を託した。1933(昭和8)、成城事件が起きたときも、白秋は強力な小原の味方であった。成城事件後、小原が成城を辞して、玉川学園の教育に専念するようになると、2人の子供を玉川学園に転校させた。理想を掲げて新たな教育の場を作り上げた小原。それまでの唱歌にはない感性豊かな童謡を発表するなど、文芸の分野で新たな流れを作り出した北原。この当時、小原は「出版は私学経営に不可欠」と考え、『児童百科大辞典』や教育書を発行していたが、さらに女性向けの修養雑誌として1932(昭和7)年に「女性日本」を発刊。そして小原は北原に歌詞の制作を依頼する。創刊号の巻頭には、北原の手による「女性日本の歌」が掲載された。この詩に曲を付けたのは「城ヶ島の雨」で知られる梁田貞。以後、北原は女性日本を創作の場として数多くの詩や随筆などを発表していくことになる。他にも北原は歌人として、小原の活動を題材に数々の和歌を残している。

なお、「運動会歌」は、元々は成城学園と玉川学園の両校で歌われることを想定して作詞された。しかし成城事件後は、ほとんど玉川学園だけで歌われるようになり現在に至っている。

和歌や童謡の作家として知られる北原白秋。校歌や応援歌の創作はそのような彼の創作活動の一面であり、それほど知られてはいない。玉川学園の子供たちも、彼の作品とは気付かず歌っていることだろう。けれども秋になると玉川の丘に毎年響くそのメロディ、その歌詞は、子供たちが大人になっても胸に刻まれているに違いない。

参考文献
小原國芳編『女性日本』創刊号 玉川学園出版部 1932
小原國芳編『女性日本』第15号 玉川学園出版部 1933
小原國芳編『学園日記』第52号 玉川学園出版部 1933