玉川学園の歴史
夢の学園を目指して始まった玉川の歴史も、95余年という年月を重ねました。
常に、その時代の変化と共に発展し、今では幼稚部から大学院まで約1万人が集う総合学園になりました。
ここでは、1929年の創立当時から現在までの足跡や、キャンパスに残された歴史ある場所・品々にスポットをあて、夢の実現のために込められた想いを振り返っていきます。
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労作教育研究会
玉川学園創立の4か月後の1929(昭和4)年8月15日、7日間の日程で第1回労作教育修養会が開催された。さらに1931(昭和6)年の第3回開催から労作教育研究会と名称を変更し、1940(昭和15)年には国民学校研究会という名称で実施された。以後、交通統制により中止となったが、戦後に玉川で開催された教育研究会につながるものといえる。
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クリスマスキャロルと大焚火
玉川学園創立の年1929(昭和4)年の12月24日深夜にクリスマスキャロル隊を編成し、学園内および学園村の家々を巡った。一週間後の12月31日の午後11時から大焚火、12時から除夜の太鼓、そして祈り。その後、クリスマスキャロルと大焚火は、恒例の行事として代々塾生に受け継がれ、継続して行われた。
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太鼓櫓
1970(昭和45)年7月に新太鼓櫓が完成。この太鼓櫓は、玉川学園創立40周年を記念して、当時の塾生たちが職人の方々と共に一から造りあげたもの。櫓の3階に設置された太鼓は、当時のくりぬき太鼓としては日本最大のものであった。
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収穫祭
農学部収穫祭は、キャンパス内の農場で、収穫物を豚汁にして食べたのが始まりと言われている。1952(昭和27)年頃のことである。そして、2017年開催の収穫祭で第65回目を迎えた。収穫祭は、豊かな稔りを祝う祭典であるとともに、農学部での日頃の研究成果の発表の場として位置づけられている。
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コスモス祭
1963(昭和38)年12月19日、初めての大学文化祭が開催された。4年後の1967(昭和42)年からは、大学文化祭をコスモス祭と呼ぶようになった。1997(平成9)年からは収穫祭と同じ日に実施されるようになり、課外活動の展示や発表が中心であったこれまでの内容に、各学部のゼミを中心とした展示が加わり、研究発表の場としての色彩がさらに強まった。
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健康院(現 保健センター健康院)
創立者小原國芳は、学校には病気やケガの治療のみならず、心身両面の健康維持と増進をはかる拠点が必要と、創立の翌年に健康院を開設した。「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」の言葉を重んじ、「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」と、知識偏重教育からの脱却を唱えた。
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玉川学園舞踊団のギリシャ公演
1972(昭和47)年8月10日、玉川学園舞踊団はギリシャに向かった。そして、約20日間、ギリシャの各地において10回の公演を行った。それは、ギリシャ古代劇場と日本民俗芸能との調和への挑戦でもあった。
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CHaT Net
CHaT Net(Children, Homes and Teachers Network)は、児童・生徒と家庭 (保護者)と教師(学校)が協力して創りあげている玉川学園の教育コンピュータ・ネットワークで、1998(平成10)年に運用を開始。今年2018(平成30)年に20周年を迎えた。ネット上での日常的なやりとりを通して、玉川学園が目指す「三位一体の教育」を実現。CHaT Netの有効活用は、学校と家庭の情報共有を深め、教育活動に役立っている。
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経塚山 三角点
学内では経塚山を三角点とも呼ぶ。かつては中学部の労作で建てられた茶室があり、またバーベキューなどを行うこともできた。三角点の頂上には“アルペンスキーの父”として知られるハンネス・シュナイダーの像が立っている。この頂上に立つと、「地球の三分の一が見えるぞ」という小原國芳の声が聞こえてくるかもしれない。
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玉川大学演劇舞踊団のヨーロッパ公演旅行
1968(昭和43)年4月20日から6月21日までの約60日間にわたって、玉川大学演劇舞踊団は、第2回国際青年演劇祭への出演をきっかけに、アラスカ、デンマーク、ドイツ、スイス、イギリスで23回の公演を行った。舞台公演の披露はもちろんのこと、学生交歓やヨーロッパ文化に触れることも目的であり、公演後イタリア、ギリシャの見学旅行も日程に組み込まれた。
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村の第一夜
諸君、新しい日本を動かすべき力はここから生れなければならない。いや、必ず生れると僕は信ずる。・・・やろうじゃないか。1929年の3月31日という日を、世界歴史の一頁に、必ず書き落とすことの出来ない日としようじゃないか。・・・僕等がこれからなしとげる仕事の大小は、恐らく今夜の決心の大小によって殆ど決まるだろう。
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西田幾多郎
玉川学園創立者小原國芳の京都帝国大学時代の恩師に日本を代表する哲学者西田幾多郎がいた。西田は國芳の教育観や宗教観に多大な影響を与えた人物の一人である。
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ラウンドスクエア
ラウンドスクエアは、世界50カ国180校以上のメンバー校を有する国際規模の私立学校連盟である。玉川学園は、2005(平成17)年に日本で初めて正式なメンバー校として認定され、毎年、国際会議、ジュニア会議に生徒たちを派遣している。
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ミツバチ研究
ミツバチは巣に帰ると8の字型にダンスを踊り、巣にいる仲間たちに蜜や花粉などがある場所を知らせる。また、仲間との分業で協力し合う習性を持っている。これは高度なコミュニケーション能力を有していることを意味する。そのミツバチの花粉媒介を利用した果樹類の増産に挑戦すべく、1950(昭和25)年、玉川のミツバチ研究が本格的に始まった。そして今日、本学のミツバチ研究は国際的にも高く評価されている。
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玉川学園創立50周年記念行事
1980(昭和55)年10月28日、常陸宮殿下、同妃殿下の御台臨を仰ぎ、日本武道館において13,000名が一堂に会し、創立50周年記念式典を開催した。また、同日、ホテルニューオータニにおいて、記念祝賀会および教育博物資料展示会を開催。1980(昭和55)年度には、この他、さまざまな記念行事が行われた。
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体育祭
「われわれの競争相手は無限大の大空、確乎不動の大地、しっかり頑張りましょう」の学園長の開会の言葉で始まる体育祭。玉川学園創立の1929(昭和4)年から開催され、2018(平成30)年の体育祭で90回目を迎える。
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田尾一一(たお かずいち)
玉川っ子であれば、誰でも歌うことができるのが玉川学園校歌。この校歌が誕生したのが1929(昭和4)年4月4日。作詞を担当したのが田尾一一。「玉川学園体操歌」も田尾の作詞である。
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玉川学園機関誌『學園日記』
玉川学園機関誌『全人』(毎月発行)の創刊時の誌名は『學園日記』。学園創立の年に誕生した『學園日誌』は、『全人』等に誌名を変えながらも玉川学園の歴史と共に歩み、現在も玉川学園の教育、研究の実践および成果を記録し伝えている。
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学校劇『青い鳥』
メーテルリンク作の「青い鳥」は、世界中の人たちから愛されている作品。真実の幸福を求めて遍歴する、チルチルとミチルの物語。6幕10場の大作。玉川学園では学校劇として3度上演している。
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満蒙皇軍慰問公演 ― 一万キロ―
NHKテレビの朝の連続ドラマ『わろてんか』で、「皇軍慰問」が行われていたことが放送されました。同様のことを本学でも行っていましたので、ここに紹介します。
満蒙への皇軍慰問団は、小原國芳を団長に生徒35名と引率教員で、1940(昭和15)年6月10日から7月25日までの一か月半、各地を巡り、公演を行った。一行は下関から釜山に渡り、大邱、京城といった都市でも公演を行って満洲に入った。公演は、「小原國芳の講演、体操・舞踊の実演、合唱」という構成で行われた。