故きを温ねて 50

大学の先生をヨソからばかり頂いとるワケにも行きませぬ

哲学者 西田幾多郎の直弟子であった高山岩男教授による文学研究科教育学専攻での講義風景。1978年12月
工学研究科の設置認可書の一部。文部大臣剱木亨弘(けんのきとしひろ)の名が記されている

本学が創立し2週間後の新聞社取材に対して、小原國芳は「現在幼稚園、小學校、中學校とで約百名の生徒がゐ(い)ますが將來この志業を完成するには大學敎育まで一貫してやらねばなりませぬ」(『東京日日新聞』1929年4月24日)と述べた。13年後の1942(昭和17)年に興亜工業大学(現千葉工業大学)を開校したが、諸般の事情で玉川から去った。1947年、大学令による最後の旧制大学として玉川大学が認可され、創立からの念願が成就。さらに2年後、学校教育法により新制玉川大学が認可された。

大学の設置から20年、小原は「いつまでも、大学の先生をヨソからばかり頂いとるワケにも行きませぬ」(『全人教育』1967年4月)と述べ、1967年に工学研究科修士課程、4年後に文学研究科修士課程、10年後に農学研究科修士課程を開設した。修士課程設置後、それぞれの博士課程も開設し高等教育の進展拡充を図った。

大学院には「学術の理論および応用を教授研究し、その深奥をきわめ、または高度の専門性が求められ……」(学校教育法99条)等の目的がある。その上で、自校出身の大学教員を養成したいという希望が小原にあったのだろう。

その後、多くの卒業生が教員となり、玉川大学および大学院の各部、各研究科にも在職している。より専門的に学問と向き合う研究所も発展し、大学院生の学びの場は広がっている。小原の願いが叶ったと言えるだろう。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2017年11月号(No.821)より