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故きを温ねて 56

聖山の中腹に、全く堂々と

文学部校舎と波多野精一の像。今日1日頑張れと励ましているかのような場所に建つ(1962年8月)
町田郵便局が製作した風景印。文学部校舎が町田を代表する景観に選ばれている

1961(昭和36)年6月19日、文学部校舎(大学2号館)が竣功。「聖山の中腹に、全く堂々と……文学部へ登って行く左手の森の中に、何といっても第一に一代の碩学ハタノ先生の銅像」を置きたいと、小原國芳は述べた(『全人教育』昭和36年9月号)。ハタノ先生とは玉川大学第2代学長波多野精一のことである。

玉川学園創立30周年記念事業として、『玉川百科大辞典』(全31巻)刊行、水源の確保、塾食堂(後の、りんどう食堂)、健康院、中学部校舎、高等部化学館、文学部校舎建設が行われることになった。

1960年3月、大体育館前道路横の井戸から1日1,400トンの水が得られ、建設工事用水が確保できるようになった。その結果、玉川の丘に初めて鉄筋建築物として塾食堂が建てられた。大学初の鉄筋校舎は文学部校舎で、その後鉄筋校舎の建築が続いた。

文学部校舎は文学部校舎、文学部第2校舎、大学2号館等々、時々の学内事情で名称が変わったが、建物全体が白色で塗装されていることからホワイト校舎、ホワイトハウス等と呼ばれた。文学部校舎は竣功して60年近くになる。卒業生にとっては長く親しまれた校舎が消えゆくのは寂しいことである。しかし、東京に関東大震災級の地震がいつ起きても不思議はない。学生たちが安心安全な大学生活を送るために、最新の耐震性を備えた校舎は必須である。新しい時代の設備や機能を持った校舎で、学修意欲がより高まるに違いない。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2018年5月号(No.827)より

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