玉川豆知識 No.24

成城学園の誕生と小原通り、澤柳通り

1918(大正7)年夏、京都帝国大学を卒業した小原國芳は、広島高等師範学校附属小学校理事(現在の教頭・教務主任)を経て、教育界の大御所であった澤柳政太郎校長の招きで、牛込原町にあった成城小学校の主事として上京した。澤柳政太郎は、文部次官のときに小学校令を改正して義務教育を4年から6年に延長し、その後初代の東北帝国大学総長、さらには京都帝国大学第5代総長を歴任した教育界の重鎮であった。

 
小原國芳
澤柳政太郎
 

小原は主事として新教育運動に力を注いだ。1922(大正11)年、成城小学校と同じ学風をもった成城第二中学校を新設、さらに東京府下北多摩郡砧村(現在の世田谷区成城町)に小学校と成城第二中学校を移転し、1926(大正15)年には旧制の成城高等学校を増設した。特に苦労したのが砧村の土地の確保。そして、その資金の調達であった。
資金の調達と学校経営について相談するために、小原は山口県の秋吉台で不良少年感化事業を行っていた教育家の本間俊平を訪ねた。本間は、かつて加島銀行の広岡浅子から50万円の寄付の申し出を受けたが断った経緯があり、その時のお金があるはずだと言い、紹介状を持たせてくれた。また、その際、移転場所について、本間は、きっと将来は新宿あたりから小田原に向かって新しい鉄道路線ができるよと予言した。実際に数年後、小田急線が開通した。
砧村の土地を購入するため、小原は地主の鈴木久弥と小田急電鉄の利光社長と3人で打合せを行った。しかし、土地売却の話はまとまったが値段が決まらない。小原は、「小田急電鉄は停車場の敷地として必要なのは1,800坪、残り全部を私が買いたい。小田急電鉄は坪3円、私は倍の6円で購入する」と提案。この提案を鈴木は快諾した。小田急電鉄にとってはもっと高い金額で購入する予定だったため、この提案は大歓迎であった。
小原がこの時、成城学園の土地購入の資金として使ったのが、本間俊平を通して広岡家から借りた25万円であった。

小原は購入した北多摩郡砧村の土地145,000平方メートルのうち、50,000平方メートルを学校の敷地として寄付し、残りの95,000平方メートルを住宅地として売却し校舎等の建設の資金とした。
こうして、現在の成城学園、そして成城の町が誕生したのである。

成城学園前駅の北口を出ると桜並木がつづいている。昔はこの道を「澤柳通り」と呼んでいた。また、成城学園正門からまっすぐに西に伸びる銀杏並木で有名な現在の「正門通り」は、かつては「小原通り」と呼ばれていた。成城学園前駅から「澤柳通り」を進んで二つ目に交差する道が「小原通り」であった。
なお、小原國芳はその後、1929(昭和4)年に、さらに「ゆめの学校」として玉川学園を創設することになる。

<正門通り(かつての「小原通り」)>

 
成城学園正門から見た
かつての「小原通り」
成城学園正門に続く
かつての「小原通り」
 

<成城通り(かつての「澤柳通り」)>

 
成城学園前駅から見た
かつての「澤柳通り」
成城学園前駅に続く
かつての「澤柳通り」
 

<かつての「小原通り」と「澤柳通り」が交差する地点>

 
小原の案で、曲がり角は通りやすいように、
曲りやすいように、角きりがなされている。
 

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参考文献
南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977
小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980