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野口英世と小原國芳

黄熱病の研究と、その撲滅に力を注いだ野口英世の功績を称え、玉川学園がメキシコに銅像を贈りました。

1.野口英世と小原國芳

野口英世像

1960(昭和35)年、玉川学園の創立者である小原國芳はメキシコで行われた第3回国際大学協会総会に、日本私立大学の代表として出席しました。会議後、教育事情視察のためメキシコ各地を歴訪した國芳は、ユカタン半島のメリダ市にあるメリダ大学(現在のユカタン州立自治大学)医学部付属のオーラン病院に立ち寄り、同所で医学の研究を行った野口英世の研究室を見学。その時に案内をしてくれたのが、親日家で開業医のビイヤヌエバ氏。ビイヤヌエバ氏はじめ野口英世から直接指導を受けた同大教授たちから「博士の遺徳を永遠に顕彰したい。そのために野口英世博士の記念像がほしい。」という希望を聞いた國芳は銅像を贈呈する約束をしました。

帰国後、國芳はそのことを学生、生徒たちにも話しました。その話を聞いた学生、生徒たちは小遣いやアルバイト代を集めました。そして礼拝献金などを加えることで約17万円の資金ができました。野口記念会の協力もあり、日本芸術院会員の吉田三郎氏に制作を依頼し、野口英世のブロンズ立像が完成。そして、駐日メキシコ大使バーエ氏を玉川の丘に招き、全学園あげての銅像贈呈式を挙行しました。その後、日本の外務省の協力を得て、銅像は無事にメリダ市に運ばれました。

2.玉川学園メキシコ親善使節団と野口英世の銅像

野口英世像の除幕式

野口英世の像を贈られたメキシコのユカタン州知事より、1961(昭和36)年6月25日の除幕式に小原國芳以下、教職員や学生たちを招待したい、さらには学生たちによる日本文化の紹介を行ってほしい旨、連絡がありました。学園としても微力ではありますが、両国の親善にいささかでも貢献できればと考え、進んでこの招待をお受けしました。こうして、玉川学園メキシコ親善使節団(団長:小原國芳、教職員7人、研究生5人、大学生9人、高等部生9人、中学部生5人、小学部生4人の計40人からなる。副団長はメキシコ公演の総監督でもあった岡田陽)が結成され、6月21日から7月17日まで26日間の親善旅行が計画されました。そして、メキシコに渡った使節団は、当時の駐墨大使も列席する中、オーラン病院の正門中庭で盛大に行われた野口英世像の除幕式のセレモニーに参加しました。玉川学園メキシコ親善使節団のメキシコ滞在中の費用は、すべてメキシコのユカタン州政府が負担。除幕式の前には、メリダ市の歓迎式や市長主催のレセプションも開催されました。除幕式終了後には、学生による日本芸能公演「日本の日」が企画され、一行は日本の歌や演劇、伝統舞踊などを披露しました。そして、メキシコを離れた後、ロサンゼルス、ハワイへ。使節団の一行は、メキシコ市、メリダ市、オァハカ市、ロサンゼルス市、ホノルル市で計13回の芸能公演を実施しました。

3.野口英世像の修復計画とレプリカ

玉川学園では、野口英世像を贈呈してから50年近くが経過していたことを受け、また、玉川学園創立80周年の国際貢献事業の一つとして、銅像の台座の修復が計画されました。しかし、オ―ラン病院の建物と野口英世の銅像は文化財に指定されており、銅像の修復には文化庁の許可が必要となります。また、ユカタン州立自治医科大学の中にある野口英世博士地域研究センターが野口英世の銅像をもらえないかと交渉した際も、文化財のため断られています。そのかわり、レプリカを作ることは許可されました。それにより、野口英世博士地域研究センターは、2008(平成20)年に野口英世のレプリカ像を制作しました。

レプリカ像
2011年本物の像の台座に取り付けるために制作された陶板と在メキシコ大使館より贈られた野口英世の写真

4.野口英世の略歴

野口英世は、1876(明治9)年11月9日、福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれました。猪苗代高等小学校を卒業した後、済生学舎(現在の日本医科大学)を修了。その後ペンシルベニア大学の医学部を経て、ロックフェラー医学研究所の研究員となりました。細菌学者として、黄熱病や梅毒などの研究を進め、ノーベル賞において生理学・医学の分野で3度候補に挙がりました。1899年中国のニーチャン、1900~1903年アメリカのフィラデルフィア、1903~1904年デンマークのコペンハーゲン、1904年~ニューヨーク(ロックフェラー医学研究所の研究員)、1913年ドイツのベルリン、1915年一時帰国、1918年~エクアドル共和国のグアヤキル、さらにはメキシコや南米のペルー、ブラジルなど、1927年~英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラ。世界各地を回り研究を続けてきた野口英世は、アクラにて黄熱病の研究中、自らも黄熱病にかかり、1928(昭和3)年5月21日に51歳で亡くなりました。

正五位・勲二等旭日重光章を受章。京都大学医学博士、東京大学理学博士、ブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。

野口英世の胸像・銅像が以下のところに設置されています。

<胸像>ニューヨークのロックフェラー大学の図書館入口
    福島県猪苗代町にある野口英世記念館
    東京都新宿区にある野口英世記念館
    長野県佐久市にある川村吾蔵記念館
<銅像>東京の上野恩賜公演の国立科学博物館前
    メキシコのメリダ市にあるユカタン州立自治大学付属のオーラン病院正門中庭

参考文献

  • 玉川学園編『メキシコ親善旅行記』 玉川大学出版部 2007年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史 写真編』 玉川学園 1980年

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