3市にまたがる広大なキャンパス

約61万㎡におよぶ玉川学園の広大なキャンパスは、東京都の町田市、神奈川県の横浜市、川崎市の3市にまたがっています。

1.玉川学園の誕生

玉川学園創立者小原國芳が思い描いた「夢の学校」とは何だったのでしょうか。それは要約すれば、全人的な人格を育む、私塾のような場所。「マコトの教育」を行う場所。「マコトの教育」とは、すなわち、画一教育、詰め込み型の受験教育ではなく、宗教・芸術・道徳・哲学・労作教育を柱にし、調和のとれた「全人」を目指す教育でありました。その教育を実践することのできる学校を自らの手で、一からつくりたい――國芳が「夢の学校」建設に着手したのは、成城学園の校長を務めていた42歳のときでした。

ゆめの学校

「夢の学校」建設に向けて、まず着手したのが、広い敷地を手に入れることでした。國芳が目を付けたのは、南多摩の町田と鶴川のあいだにある30万坪の林野です。そして、多額の借金をして、東京府南多摩郡町田町本町田(現在の町田市内)周辺に30万坪の土地を手に入れ、小田急電鉄と交渉し、駅敷地及び駅舎を提供して小田急線「玉川学園前駅」を新設することを確約してもらいました。駅ができれば通学に便利というだけではなく、地価も上がり、この地に住もうと思う人も増えます。こうして財団法人「玉川学園」が設立されました。当初から國芳の念頭には、「玉川学園」という名称があったようです。

1929(昭和4)年の創立当時の玉川学園前駅

1929(昭和4)年の創立当時は教職員18人と生徒111人。合わせても、わずか129人という小さな学校でした。創成期には教職員と生徒が寝食をともにし、一日の授業を終えると労作に明け暮れていました。やぶを開墾して畑をつくり、薪を割り、道路を整備し、運動場を建設しました。教師と生徒が一丸となって、「夢の学校」を自らの手でつくり上げていきました。それから半世紀にわたって「夢の学校」は拡大を続け、幼稚園から大学・大学院までを擁する総合学園へと発展を遂げていきました。

2.開学時の住所

「東京府南多摩郡町田町本町田字乙拾八號四千百拾番地」が玉川学園開学時の住所です。國芳は小田急線を何度も往復し、美しい丘陵地帯であったこの地を見つけました。適度な起伏は「夢の学校」にふさわしく、東京に属するため、学校開発と同時に住宅地として開発することもでき、理想の学園都市に発展することが期待できました。

1929(昭和4)年の創立当時の玉川学園

1929(昭和4)年の創立を契機に、小田急線の最寄駅も「玉川学園前駅」となり、1967(昭和42)年の表示改正により住所も「町田市玉川学園」となりました。これにより、学校名、駅名、地名すべてが「玉川学園」に統一されました。

3.キャンパス内の三市の分岐点

玉川学園のキャンパスは、東京都町田市と神奈川県横浜市、さらには神奈川県川崎市の三市にまたがっており、三市を分ける分岐点にそれを示す鋲が打ち込まれています。道路に埋め込まれたその鋲には、「町・横・川」の3文字が書かれています。これは「町田市・横浜市・川崎市」の三市の分岐点を示しています。ちなみに、大学8号館前は町田市と横浜市の境目で、松陰橋側が町田市、8号館側が横浜市です。大学生の場合、「午前の授業は横浜市の校舎で、午後の授業は町田市の校舎で。」ということもあります。

三市の分岐点を示す鋲
「二宮尊徳翁」と刻まれている自然石の石碑

大学8号館前の道を大学6号館に向かって進むと、左手の道路際の経塚山斜面に、「二宮尊徳翁」と刻まれている自然石の石碑を見ることができます。ちょうどその前あたりの道路に三市の分岐点を示す鋲があります。一つのキャンパスが三市にまたがるのは大変珍しく、また、キャンパスの中央を小田急線が通り、その上に校舎が建っているのも他では見られない光景です。

参考文献

  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 『玉川学園の教育活動』 玉川学園 2008年
  • 『玉川学園総合パンフレット』 玉川学園 2017年