玉川豆知識 No.48

武者小路実篤と小原國芳

労作教育研究会の講師として玉川学園に初来園した武者小路実篤は、玉川学園内に設立された興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の設置にも関わっていました。そして、実篤と國芳には、村づくり・町づくり、理想郷の実現・夢の学校の実現といった共通する思いと行動力がありました。

1.武者小路実篤(小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。)

武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)は、1885(明治18)年5月12日に東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の公卿の家系である武者小路家に生まれました。学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、1906(明治39)年に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。翌年、学習院時代に同級生だった志賀直哉や、木下利玄たちと十四日会を作り創作活動を開始。その年大学を退学。1908(明治41)年には『荒野』という作品集を自費出版しました。1910(明治43)年、志賀直哉や有島武郎などと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らは白樺派と呼ばれました。

1918(大正7)年に実篤は、階級闘争のない調和的な社会という理想郷の実現を求めて、宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設しました。実篤はその村で農作業を行いながら執筆活動を継続。そして、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし、木城村の「新しき村」はダムの建設により大半が水没しました。そのため、「新しき村」建設の6年後の1924(大正13)年に実篤は離村し、会費のみを納める村外会員となりました。しかし、理想郷実現の夢を捨てきれない実篤は、1939(昭和14)年、埼玉県入間郡毛呂山町に「新しき村」を建設。この両方の村は、今も存在しています。

また、1936(昭和11)年の欧米旅行で各地の美術館を訪問するなど美術にも関心が深く、多くの評論を著し、自らも絵筆をとり40歳頃から絵を描くようになりました。芸術院会員にもなっていました。1948(昭和23)年には主幹として同人誌「心」を創刊し、『真理先生』を連載。晩年には絵に「君は君 我は我也 されど仲よき」などのことばを添えた色紙をさかんに揮毫していました。このように実篤はその生涯を通じて、文学はもとより、美術、演劇、さらには思想と幅広い分野で活躍。1951(昭和26)年には文化勲章を受章しました。

1955(昭和30)年、実篤が70歳のときに、調布市仙川に引っ越し、子供のときから水のある場所に住みたいという夢を叶えることができました。そして実篤は晩年の約20年をその地で過ごし、1976(昭和51)年4月9日、東京慈恵医科大学附属第三病院で死去。実篤の死後、調布市仙川の自宅の敷地や建物は、実篤公園と調布市武者小路実篤記念館となり、一般公開されています。

実篤の代表作には、小説では『友情』『真理先生』『お目出たき人』『愛と死』『幸福者』、戯曲では『その妹』『ある青年の夢』などがあります。

2.実篤と小原國芳

実篤は1934(昭和9)年6月9日、第7回労作教育研究会の講師として玉川学園に初来園しています。その後も玉川学園との関係は深く、玉川学園創立者である小原國芳によって計画され、準備され、1942(昭和17)年に玉川学園内に設立された興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の設置にも関わっていました。実は、設立時に文部省(現在の文部科学省)に提出した設置趣意書の建学の精神および教育方針の作成に、実篤は、小原國芳のほか、政治評論家の徳富蘇峰、キリスト教伝道者の本間俊平、哲学者で國芳の京都帝国大学時代の恩師である西田幾多郎、磁性物理学の世界的権威であり東北帝国大学総長の本多光太郎、京都帝国大学前総長の小西重直らとともに参加していました。

諸星洪著『玉川のおやじ 弟子の見たる小原先生』(1974年、玉川大学出版部発行)の「序」を実篤が書いています。その中に次のような記述があります。

「玉川学園には僕は二、三度行つたことがあり、小原さんにも何度か御逢ひした。玉川学園は、新しき村をつくりつつある僕には、土地の広いこと、建物の立派なことなぞ、羨望の念を禁じる事は出来なかった。実際いい処を見つけたものだし、又よく之迄金を集ることが出来たと思ひ、大変だつたらうと思ひ、小原さんで始めて出来る事と思つた。
(略)

玉川学園が学問と労働とを、両立させて、やつてゐるらしい点は、我等の新しき村と共通なものがあるやうに思ふ。今の時代はまだ人間は働かなければ食へないのは事実だから、勉強すると同時に、真面目に働く生活を知ることは大事と思ふ。人生は真面目なものだと言ふことを先づ知り、その上、学問の大事さを知り、生きた学問をするのは大事と思はれる。その他芸術に対する理解や、文化的な生活に就いて小原さんは今の日本人として珍しく進んだ考へを持つてゐる人に思はれ、いろいろ期待してゐる。」

また、小原國芳監修『全人』第80号(玉川大学出版部 1956年)に、國芳の古稀を祝った『小原君の古稀を迎へて』という実篤の文章が掲載されている。

小原君が成城学校の校長時分に僕の娘を成城の小学校に入れた事があり、小原君がやめた時、僕の娘も他の学校に転校させた事がある。当時から三十年近く小原君とは時々思ひもかけない時に思ひもかけない処でお逢ひした事もあり、玉川学園にも何度も饒舌りに行つた事があり、その他でも何かとつながりがあり、小原君の仕事にはいくらか理解も持つてゐるつもりだが、しかし小原さんをよく知つて居るとか、小原さんのよき友人の一人であるなぞと言ふ自信はない。
ただ僕が小原君に感心して居るのは、自分の理想に捨身でぶつかつて居る点だ。其処へゆくと僕は新しき村の仕事をしてゐるが、小原君程捨身でその仕事をしてゐないので、その点で小原君に感心してゐる。

3.実篤のことば

①  自分を信じて行かなければいけない。
教わるものは遠慮なく教わるがいいが、
自分の頭と眼だけは
自分のものにしておかなければいけない。

②  この道より我を生かす道はなし、
この道を行く。

③  君は君
我は我也
されど仲よき

④  色と言うものは
お互いに助けあって美しくなるものだよ。
人間と同じことだよ。
どっちの色を殺しても駄目だよ。
どの色も生かさなければ。

⑤  あるがままにて、
満足するもの万歳。

参考文献

  • 諸星洪著『玉川のおやじ 弟子の見たる小原先生』 玉川大学出版部 1974年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980年
  • 武者小路実篤著『やり甲斐のある仕事』(小原國芳監修『全人教育』第165号 玉川大学出版部 1963年 に所収)
  • 武者小路実篤の玉川学園講演記録『人生というもの―生れた喜びと使命―』(小原國芳監修『全人教育』第113号 玉川大学出版部 1959年 に所収)
  • 武者小路実篤著『小原君の古稀を迎へて』(小原國芳監修『全人』第80号 玉川大学出版部 1956年 に所収)
  • 武者小路実篤の玉川学園講演記録『人生について』(小原國芳監修『全人』第71号 玉川大学出版部 1955年 に所収)
  • 武者小路実篤著『自分の望む世界』(小原國芳監修『全人』第20巻第18号 玉川大学出版部 1950年 に所収)
  • 武者小路実篤著『無限の道を』(小原國芳監修『全人』第19巻第6号 玉川大学出版部 1949年 に所収)
  • 武者小路実篤著『人智に就て』(小原國芳監修『全人』第19巻第1号 玉川大學出版部 1949年 に所収)
  • 武者小路実篤著『青年劇 だるま 一幕』(小原國芳監修『全人』第16巻11月号 玉川出版部 1946年 に所収)