玉川豆知識 No.62

往復6里(約24キロ)の山道を歩いて高等小学校に通った小原國芳

國芳は、毎朝4時頃に提灯をさげて家を出発。友達と2人で約600メートルある峠を越えて、麓の小学校まで通いました。その後、教育者の道をめざした國芳は、幾多の困難を乗り越えて、京都帝国大学に進学しました。

1.生まれ故郷「久志」での生活

玉川学園創立者小原國芳が生まれ育った久志は、鹿児島県の薩摩半島の西南端、枕崎の近くにあります。海岸線は変化に富み、白砂の浜、サンゴの海が広がり、とても美しい所です。

久志の海岸
國芳の生まれ故郷、久志

國芳の祖父は寺子屋の師匠で、絵、書、歌の名人でもあり、村人たちから尊敬されていました。その祖父について大叔母から教えられたことが、少年國芳の教師を目指す一つの原動力となりました。

1898(明治31)年9月17日、國芳10歳のときに母親が38歳の若さで亡くなりました。その時、長男が15歳、二男が13歳、四男が9歳、長女が6歳、五男が4歳、六男が5カ月でした。さらにその2年後の1900(明治33)年6月30日に父親も46歳の若さで亡くなりました。残された7人の兄弟は、山のような借金をかかえた厳しい生活の中で、イモとラッキョとカツオの骨などを食べながら、一致協力して生きていきました。

國芳の生誕地跡にたつ記念碑(現在)
小原國芳生誕地公園(現在)

2.桜山尋常高等小学校への転校

「小原國芳勉学の道」の表示

当時、國芳は久志尋常小学校特置高等科に通っていました。しかし、その学校は基準とされる設備が整備されていなく、卒業しても正式な高等小学校卒業の資格が認められませんでした。國芳を可愛がっていた久志尋常小学校の源之先生(本名は田実源之助)は、勉強熱心だった國芳に何とか高等小学校卒業の資格を取らせたいと考え、転校を勧めました。あと数カ月で卒業でしたが、國芳と友達の二人は枕崎市内にある桜山尋常高等小学校に通うことを決心しました。片道3里、往復6里(約24キロ)の道のりを毎日歩いて通うことになります。そして、1900(明治33)年1月に桜山尋常高等小学校に入学、同年3月21日に卒業。当時のことを國芳は、『教育一路』(玉川大学出版部発行)に次のように記述しています。

桜山は今の枕崎市内、久志からは「石原小石原」の二千尺(六百メートル)の峠を越えねばならない。入来君と私は、毎朝四時ごろ、提灯をさげて家を出る。南国とはいえ、冬の早朝は寒い。峠につくころ東の空が白む。草むらに提灯を隠して、ふもとの学校へ走る。
帰りも暗い。「ヤマンバ」が出るといわれる杉の森がこわい。このオバケは、美しい顔でニッコリ笑い、見とれるキコリや旅人の血を吸うのだという。なんでも「おーい」と呼びかけ、返事をしようものなら、火の玉になって追っかけてくる。でも一度しか呼ばない。だからこの地方の人たちは、昔も今も、夜は二度、三度と呼びかけられないと返事をしない。二人の少年は、それがこわくて、息を殺して走るのでした。

桜山小学校の校庭に建てられた「小原國芳先生顕彰の碑」

3.学べぬことの悔しさに、馬屋の枯れ草に顔をうずめて号泣

薩摩半島の真ん中にある川辺(かわなべ)という町に中学校が新設されました。桜山尋常高等小学校を卒業した國芳は中学校に行きたい一心から、代用教員の長兄に、無理を承知でその思いを伝えました。「願書だけは出しておいてみなさい」という兄の言葉に、國芳は希望に燃えて受験の準備に励みました。しかし、受験に行くために必要な50銭が用意できません。ましてや多額の借金があり、月々必要な学費の目途も立たない状況でした。いよいよ明日が試験という日の朝、一緒に受験することになっていた友達が迎えに来ました。「國さんやーい。行こうや。」との声に、國芳は返事のしようがありませんでした。そして國芳は馬屋の中に飛び込んで、枯れ草に顔をうずめて、困窮の悔しさに一日中泣き続けました。

4.その後の國芳

大浜電信局跡

中学を断念した國芳のもとに、源之先生が新聞を手にしてやってきました。その新聞には、鹿児島の電気通信技術伝習生養成所の生徒募集の記事が載っていました。さらに入所すると、その日から日給18銭が支給され、教科書も機器も無料で貸してくれるということが記述されていました。國芳は早速試験勉強に取り掛かり見事合格。1900(明治33)年11月、鹿児島郵便電信局電気通信技術伝習生養成所に入所が決まりました。その養成所で6カ月間学んだ後、半年間の鹿児島郵便局勤務。その後、大隅半島の大浜電信局に配属されました。やがて大浜電信局は大根占へ移転し、大根占電信局となりました。そして電信助手・電信手の仕事を約4年間勤めたのち、1905(明治38)年4月に鹿児島県師範学校本科第一部に入学、1909(明治42)年3月卒業。さらに広島高等師範学校本科英語科を卒業後、1913(大正2)年4月、念願の教師として香川県師範学校の教壇に立ちました。その後も、國芳は理想の教育を学ぶべく、1915(大正4)年9月、香川県師範学校教諭を辞任し、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。教育への道を、さらに究めんとしました。

丸木崎展望台より丸木浜と本学南さつま久志農場を望む
参考文献
  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 山﨑亮太郎著『今、蘇る全人教育 小原國芳』 教育新聞社 2001年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 石橋哲成著『鹿児島時代の小原國芳-現地調査に基づく小原國芳研究 第一報』2009年