玉川豆知識 No.68

日本の宇宙開発・ロケット開発の父・故糸川英夫博士と小原國芳

小惑星探査機「はやぶさ」の探査対象となった小惑星「イトカワ」は、日本の宇宙開発・ロケット開発の父といわれた故糸川英夫博士の名前にちなんで、そのように名付けられました。その故糸川英夫博士と小原國芳の繋がりを紹介します。

1.糸川博士と玉川学園

1942(昭和17)年、玉川学園はキャンパス内に興亜工業大学(現在の千葉工業大学)を設置。当時東京帝国大学の助教授で航空学の権威であった糸川英夫博士を教員として招きました。さらに終戦の年である1945(昭和20)年に、当時、国防上重要な研究にあたっていた糸川研究所が疎開のために玉川学園内へ移転してきました。

右側の建物が糸川研究所(左側の建物は女子部)
糸川博士と学生
玉川こども百科『ひこうき』

そして、糸川博士は、同年7月1日に開校となった玉川工業専門学校に、教授として就任。糸川博士の物理学の授業は、原爆からガイガーカウンター、航空機設計の苦心談にまで及んでいました。また、糸川博士は、1947(昭和22)年に開設された旧制玉川大学(文農学部)において、翌年度より「科学」の講義を担当。当時の教員一覧には、田中寛一氏(「心理学」)、波多野精一氏(「哲学」)、福島政雄氏(「教育学」)、田中末広氏(「国文学」)、岡本敏明氏(「音楽」)などの名前も記されていました。

そして、1952(昭和27)年には、糸川博士の編集のもと、『ひこうき』(玉川こども百科シリーズ)が玉川大学出版部より刊行されています。

玉川こども百科『ひこうき』

2.糸川博士と小原國芳

1948(昭和23)年10月発行の『全人』(玉川大學出版部)に、玉川学園の創立者小原國芳は、忘れてはならない新教育の大恩人の一人として糸川博士を挙げ、博士についてつぎのように記述しています。

糸川博士は、日本の飛行機の權威。御年もお若いのに、あの獨創力。 (略) 奥さんが玉川出。仲うどさせて頂いた因緣。工業大學の航空科の指導役でしたのに!今は、東大敎授と玉川敎授とを兼任して頂いて居ります。近い中、玉川大學敎科書の「數學論」も出ます。廣く科學者の立場から、しかも、藝術的なすばらしい、獨創、ゆめ、幻を、いつも頂いて居ます。

1956(昭和31)年4月発行の『全人教育』(玉川大学出版部)には、「小原先生、七十歳に際しての所感」というタイトルの糸川博士の文章が掲載されています。

七十に達する迄、一貫して一つの事業、日本に、或いは世界にと言った方が良いかも知れませんが、新教育の提唱と、実施と、確立に生涯を捧げられたということは、人間として貴いことでもあり、我々一同にとっての幸福でもあります。
一つの事業を自分の理想に沿って生涯通すということは、この矛盾と誤解と不合理に充ちている現社会に於いては誠に至難な業であって、持って生まれた優れた才能と他に、深い教養と、そしてもっと有難い心身の健康に恵まれなければ不可能であることです。
(略)
個人も民族も、失敗や逆境や不遇や不幸によって心身を消耗して自信を喪い、世間を呪い、無気力な現実家になり勝ちでありましょう。個人に於いても民族に於いても、問題は不幸に遭ったということでなく、その不幸にどう対処したか、するかということでありましょう。昨今の日本の姿を見るとき、小原先生の存在がこの上なく貴重なものに思えます。
小原先生、七十年の歴史に学ぶ個人の一人でも多くなることを希います。それによってかんなんに対処して、不幸を幸にし、いつまでも理想と夢を失わない民族に、吾々がなって行くとしたら、何と楽しいではありませんか。

1960(昭和35)年7月発行の『玉川教育-玉川学園三十年-』には、「全人教育賛美」というタイトルで糸川博士の文章が掲載されています。その中で、「全人教育」について書かれた箇所を以下に抜粋します。

この頃、ロケットだの宇宙科学だのを何となくやるようになって、あらためてパイオニアというものの苦しみと喜びと、難しさと得難さと、そして貴さというものを又身に沁みて考えさせられ、全人教育という新しい原野の開拓者としての小原國芳先生と、その玉川学園を憶うことしきりです。
(略)
私共はどうも余りに分野にこだわりすぎるようです。文学、哲学、農学、理学、工学だのと知識を細分し、境界をつくり、そして進歩を妨げてもいるようです。
小原先生の「全人教育」ここに於いて大賛成です。宇宙科学がそうであるように、新しい科学や技術が出来るときには、先ず「全人」的なものの考え方が必要であるからです。

1978(昭和53)年3月発行の『全人教育』(玉川大学出版部)には、前年の12月13日に亡くなった小原國芳への糸川博士の追悼文が掲載されています。タイトルは、「小原國芳先生の思い出」。内容の一部を以下に記します。

この間、俳優の伊丹十三さんと話をしていたら、ヨーロッパのさる作家のたてた理論に「人間ロボット化説」というのがあるそうである。
人間が何かする。それがうまくいってくり返す。くり返していると、習慣化する。習慣化すると、何にも考えないでも手足が、ひとりでに動いて行動するようになる。それは、ロボットになったのだ、というのである。
この説はまことに面白い、と思って頭に残った。
(略)
小原國芳先生という人間は、最後まで、ロボット化しなかった真の人間である。常に、新しい夢をもち、それを実現するために、昨日を否定して今日に生き、今日を卒業して明日に生きつづけた人である。
ロボット化する人間は「安心」する、つまり「安全保障」を手に入れるわけである。ロボット化、を拒否すれば、これと逆の道になる。「安全保障」は確保されない。だから、リスクを伴う。冒険への道である。
小原先生の生涯は、かくして冒険の連続であった。

3.糸川博士と機関誌「全人」および「全人教育」

糸川博士は、本学の機関誌「全人」および「全人教育」に何度か執筆をされています。その主なもののタイトルは以下のとおりです。

機関誌名発行年タイトル
全人1947年 明日の科學へ
1948年 学習大辞典に寄せて  叩けば開かれん
【巻頭言】文化を生むもの ―― 獨創、ゆめ、まぼろし
1949年 一科學者の悲願
リーゼ・マイトナー物語
珍しもの好き
秋に寄せて
中間子の話
1950年 全人刊行一周年に当り
脳波をめぐりて-夢の実現-
1951年 二つの世界
1955年 ロケットの話
1956年 小原先生、七十歳に際しての所感
全人教育1978年 小原國芳先生の思い出

4.糸川博士の略歴

1912(大正元)年7月20日、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)生まれ。日本の宇宙開発・ロケット開発の父と呼ばれていました。専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットの開発者でもあります。東京帝国大学工学部航空学科を卒業後、中島飛行機に勤務。戦闘機の設計に関わりました。1941(昭和16)年、東京帝国大学第二工学部助教授に就任。1948(昭和23)年より教授。東大生産技術研究所でロケットの研究に従事し、1955(昭和30)年に日本初の固体燃料ロケット「ペンシルロケット」の発射実験に成功。1964(昭和39)年東大宇宙航空研究所に移り、各種ロケットの開発を行いました。1967(昭和42)年、東大を退官し組織工学研究所を設立。著書には、『逆転の発想』『航空力学の基礎と応用』『現代の冒険4 宇宙への遠い道』『前例がないからやってみよう』などがあります。1999(平成11)年2月21日86歳で死去。

参考文献

玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
小原國芳監修『全人教育』(1948年10月号) 玉川大學出版部 1948年
小原國芳監修『全人』(1956年4月号) 玉川大学出版部 1956年
小原哲郎監修『全人教育』(1978年3月号) 玉川大学出版部 1978年
玉川学園編『玉川教育-玉川学園三十年-』 玉川学園 1960年
白柳弘幸著『玉川の丘めぐり⑭全100巻を刊行『玉川こども百科』』 (小原芳明監修『全人』No.752 玉川大学出版部 2011年 に所収)