玉川豆知識 No.92

玉川体操の普及-国鉄体操、海軍体操、航空体操

昭和初期、玉川体操および玉川学園教諭であった斎藤由理男の指導を源として、国鉄体操、海軍体操、航空体操が誕生しました。特に国鉄体操はその後も基本体操の真髄をとらえ、長きにわたって実践されました。

1.国鉄体操

1932(昭和7)年、鉄道省より体操指導の要請を受けた玉川学園は、1930(昭和5)年から約1年1か月の間デンマークにあるニルス・ブックのオレロップ国民高等体操学校に留学していた玉川学園の体育教師である斎藤由理男教諭を派遣。斎藤は職業体操を創作し指導にあたりました。最初にその体操を導入したのは九州の国鉄小倉工場。それをきっかけに、国鉄の数多くの職場にてその体操が普及し、「国鉄体操」と言われるまでになりました。

戦後の復興期には、デンマーク体操東洋分校第1回の講習生であった元東海大学教授の森田徳之助が指導を継続。1958(昭和33)年以降は、デンマーク体操東洋分校第2回の講習生であった元学習院中等科教諭の菅原鎌三郎と、玉川学園旧制中学の1944(昭和19)年の卒業生で当時学習院中等科教諭であった名越茂夫が指導を受け継ぎました。

2.海軍体操

江田島の海軍兵学校を小原國芳が教育視察

1936(昭和11)年9月25日から27日の間、教育視察のために江田島にある海軍兵学校に招かれた小原國芳学園長は、兵学校教育のことで何度か玉川の丘を訪れたことのある永野修身海軍大将に、兵学校の教育に対する提案を行いました。永野は國芳の考えに共鳴し、その提案を受け入れることにしました。また、学生隊長であった佐藤中佐も國芳の言葉に感銘をうけ、家族ともども玉川学園に転居し、子供を玉川に入学させました。

当時海軍では、喇叭を伴奏とする甲板体操を試行中で、玉川の体操を実演してほしいということになりました。そして、佐藤中佐からの要請で、第二艦隊の旗艦「高雄」に玉川の体操団が招かれました。甲板体操を試行中の堀内豊秋少佐との交歓会が催され、交歓会後は体操を中心テーマとした討議が行われました。

これが契機となり、斎藤由理男教諭と堀内豊秋少佐の関係が密となり、1937(昭和12)年、デンマーク体操の普及に専念していた斎藤の指導を受け、堀内が創作した基本体操を導入した海軍体操教範が誕生。それが「海軍体操」として全海軍に広まっていきました。

3.航空体操

小原國芳学園長は、早くから海軍が導入していたこともあり、陸軍に対して体操の効用を強く説きました。当時玉川の父兄であった航空総監の土肥原賢二大将は、國芳の意見を率直に受けとめ、1941(昭和16)年に東京の立川と栃木の宇都宮の陸軍航空学校に玉川の体操を導入しました。

東京陸軍航空学校の教官約30名が
玉川体操の訓練を受ける

この一件により、陸軍航空学校の体育指導者養成の指令が発せられ、玉川は全学を挙げてこれに協力。1941(昭和16)年9月10日から20日までの間、東京陸軍航空隊士官約30名が来園。学園内に宿泊して玉川体操の訓練を受けました。同年12月には宇都宮陸軍航空学校の教官約30名も訓練を受けに来園しました。

玉川体操を導入してから数カ月後に、航空体操の発表が神宮競技場において盛大に行われました。玉川学園長の一言で、陸軍航空学校の体操が一新することになったことは、関係者を驚嘆させました。

関連サイト

参考文献

  • 石橋武彦、佐藤友久著『日本の体操:百年の歩みと実技』 不昧堂書店 1966年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年