学校法人 玉川学園 Puente 2012.06 vol.02


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られました。だからでしょうか、おばさまは周囲に「小原國芳の最高傑作は哲郎」とおっしゃっていたそうです。國芳先生はおばさまも手を焼くところがあったようですが、「哲郎が支えてくれたから玉川学園があるのだ」と。 國芳先生と哲郎先生は理事長と理事である以前に親子ですから、議論が白熱して激しく声を荒げる場面もたびたびありました。國芳先生が亡くなられる4カ月前、郷土訪問に同行したときのことです。出発直前に國芳先生の体調を心配するあまり口論になり、空港までの車中もホテルに到着されてからも、ムスッとされたまま言葉を交わしません。國芳先生をお部屋にお連れすると「哲郎に電話してくれないか」と頼まれました。哲郎先生の権幕を思い返すと正直気が重かったのですが(笑)、お電話を入れると、哲郎先生は開口一番「親父はどうしている?」とおっしゃったのです。そのころの國芳先生は入退院を繰り返されていたので、心配になられたのでしょう。お二人の父子愛を感じました。また、その重要な場面に私を立ち会わせてくださったのですから、心を許していただいているのかなと胸が熱くなり、秘書としての責任の重さを実感しました。 哲郎先生は教育者としても素晴らしい方でした。大学の入学式では保護者の方に「学校に子供を預けて安心しないでほしい。東京は誘惑の多い街。家庭と学校が手を取り合って教育していきましょう」と呼びかけられました。言うべきことはハッキリと言う、毅然とした生きざまは終生変わりありませんでした。その一方で関係者をねぎらうことも忘れず、食堂のスタッフに「子供たちが食べ物を粗末にしていませんか。行儀が悪いときには叱ってやってください」と話しかけられていたことも強く印象に残っています。また、哲郎先生のお別れの会は縁のあるホテルニューオータニで開かれましたが、ホテルスタッフが何人も献花してくださいました。こんなことはなかなかありません。哲郎先生は普段からスタッフの方々に「オータニでは、君たちスタッフの世話になっていると思っている。次もよろしく頼むよ」と声を掛けておられたので、その言葉に励まされた方たちがお別れに来てくださったのです。哲郎先生は玉川が掲げる全人そのものでした。 亡くなる8カ月前のこと。ご曾孫誕生の際に、先生はスーツにネクタイ姿で病院へ向かわれました。「生まれたばかりの赤ん坊といってもすでに一人の人格だし、新しい生命と対面するかけがえのない瞬間なのだから、正装は当然だ」とおっしゃったそうです。哲郎先生は普段から生命の大切さや人間の尊さを説いておられました。それは表層の言葉ではなく、心の奥底からにじみ出たものだったと改めて気づかされ、学ばされました。 一木一草小鳥に至るまで、哲郎先生ご夫妻は玉川の風景をこよなく愛しておられました。今もきっと遠い空の彼方から哲郎先生は、あの温かな微笑みで学園を見守っておられるのではないかと思います。当時の理事長室があった大学9号館で、哲郎先生のエピソードを語る平田さん。「哲郎先生にとっては、玉川は母校であり家であり職場であり、まさに故郷なんです。建物や施設にかける情熱は周囲が驚くほどでした」。昭和60年代初め、哲郎先生とともに。17VOL.02


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