玉川大学大学案内Puente2016
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26│PuenteたまがわPart2小原一仁(以下小原)◦先ずはラグビーを始めたきっかけを聞かせてください。川合レオ(以下川合)◦小学校6年生の時、父にラグビーボールをプレゼントされたのがきっかけです。それまではピアノを習っていて、中学部の自由研究はブラスバンド、全校体育はラグビーでした。2年目に、先輩からどちらかを選べと言われ、ラグビーを選びました。格好いいサックスができないとわかって、ラグビーにしようと。(笑)川崎桜子(以下川崎)◦兄が中・高等部とラグビー部でしたので、試合や菅平合宿に応援に行き、我が家にとってラグビーはとても身近なスポーツでした。小原◦玉川学園でのラグビー歴は?ラグビーを通して何を学びましたか?川合◦中学部から大学までの10年間です。当時顧問の沢柳宏先生が常々おっしゃっていた「たかがラグビー、されどラグビー」という言葉を大切にしています。ラグビーだけでなく勉強も一生懸命やる。何事もバランスよく行うように努力しています。川崎◦高校から7年間、いろいろな立場でラグビーに携わってきました。高等部での3年間はマネジャーとしてラグビー部に所属しましたが、3年の秋、顧問の中里孝男先生に選手としての道を開いていただきました。両方体験できたおかげで、レフリーとして必要な選手との距離感を早いうちから学べたように思います。帝京大学に進学してからは「人生のもっとも苦しい いやな 辛い損な場面を真っ先に微笑みを以って担当せよ」という玉川のモットーを思い出し行動していました。小原◦卒業後、ラグビーを続けようと思ったのはどうしてですか?川合◦実は就職が内定していたのですが、NEC(日本電気株式会社)からオファーをいただきました。とても嬉しかったのですが、当時玉川は4部リーグ。1部リーグの人とプレーした経験もありませんでしたし、通用しなかったらと思うと怖かったです。ただ、大学時代にニュージーランドに1年間留学した経験があったので、チャレンジしたくてお引き受けしました。川崎◦大学では、唯一の女子選手としてラグビー部に入部しましたが1年生の秋、女子チームの試合で肩を脱臼。4か月間リハビリという大きな怪我をしてしまいました。とても落ち込み悩んでいた時に『これからはレフリーとして関わったら?』と監督からアドバイスをいただきました。後に聞いた話ですが、「この子からラグビーを奪ったら前向きな人生が送れなくなる」と心配してくださったそうです。小原◦レオさん、NECでのプレーを始めてから、全く違う世界の中で、当初の不安がどう変わっていったのですか?我ら玉川っ子〈ラグビー編〉▲ 写真左より小原さん、 川合さん、川崎さん日本代表時代、人の嫌がるところを一生懸命やるしかなかった| (川合さん)

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