玉川大学大学案内Puente2016
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28│Puenteたまがわが、最終試合で『桜子、辛いのはわかる。自分も葛藤があったけれどこれまで支えてくれた人たちに何かできると思ったから決断したんだよ』と優しく、でもきっぱりと助言していただいたので・・・。その後、大学2年の7月にレフリーに転向。現在はB級を取得し日本レフリー協会のアカデミー生として勉強させていただいています。小原◦レフリーのレベルについて教えてください。川崎◦C級取得はわりと簡単です。B級はC級の試合数と、どのクオリティの試合で(ホイッスルを)吹いたかが重要です。フィットネスはマルチステージフィットネステスト75以上です。幸運にも帝京大学の試合をした経験により、B級はトップ合格することができました。試合の中で怖い思いもしましたが、高いレベルの試合で吹けるのはありがたかったです。小原◦女性のレフリーは少ないですか?川崎◦日本では現在40人位です。私の頃は、大学生ではただ一人だったと思います。小原◦女子レフリーの先駆者ですね。ラグビーはどちらかというと男性の世界ですが、苦労はありましたか?川崎◦ほとんどありません。周りの人たちに守られたというか、対等に扱ってくれました。男女の区別は感じませんでした。小原◦運を切り開いていくのは大変じゃなかったですか?また、これから社会人と、レフリーのバランスをどうやってとっていくつもりですか?川崎◦在学中は家族や周りの人に支えてもらいましたが、卒業後は社会人としても自立したいです。就職先の会社には2020年東京オリンピックの主審を目指したいとお伝えしたところ、私の夢を応援し、支えてくださると言っていただきました。私は本当に恵まれていると心から感謝しています。会社のご厚意に応えるためにも人一倍努力したいと思っています。小原◦レオさんの引退のきっかけは何ですか?川合◦首のヘルニアです。日本代表時代の27歳の時に悪化し、プレー中にぶつかると腕がしびれたりしていました。最終的には動かないくらい悪くなりましたが、そのままで終わりたくなかったので、テニスボールを握りつづけてリハビリをし、最後はレギュラーの座を勝ち取って優勝。きっぱりと引退を決めました。小原◦その時の気持ちは?川合◦最後は引退を覚悟して、ドクターストップを振り切って出場しました。最後のシーズンも優勝ができて、怪我も悪化することなく終えることができたので、やり遂げた気持ちでした。小原◦引退後は?川合◦当時目標がみつからなくて、NECでサラリーマンをやりながら玉川でコーチを始めました。体育スポーツセンターの指導者もやりました。大学教員として授業や体育も教えたんですよ。大学教員として玉川に在籍中に、筑波大学大学院で2年間スポーツマネージメントを学び、スポーツを発展させるために自分で団体を立ち上げたいという夢ができました。その後、玉川を退職し、自分の団体を立ち上げ、子どもたちへのラグビー指導や指導者養成、ラグビー環境づくりなどを行っています。小原◦ここで玉川学園の想い出を聞かせてください。川合◦創立者の小原國芳先生の「バカになれ、バカになれ、大バカになれ」。そして全人教育です。人として生業を見つけた時、決めたものをバカになってやり続ける。バカなくらいやる。全人教育は、団体やビジネスで人間関係を作らなければならない時に役立っています。我ら玉川っ子〈ラグビー編〉川崎桜子さん高等部2012年卒業。公益財団法人日本ラグビーフットボール協会 女子レフリー関東B級。 ◉小学部から玉川学園で学び、2歳上の兄の影響を受け玉川学園高等部でラグビー部のマネージャ、帝京大学入学後は女子選手としてのパイオニアの役目を果たす。レフリーへ転向後は、母校の試合で数多くホイッスルを吹いた。帝京大学医療技術学部スポーツ医療学科2016年卒。◉対談当日、ロングヘアに清楚な姿で現れた桜子さん。聞けばラグビーでは女性としての身嗜みもレフリーとしての重要な要素だそうです。「大きい試合だけでなく、小さい試合もどんどんテレビで放映して欲しいです。そして社会的にもっともっと認知されるスポーツになってほしい。」と話す桜子さん。社会に出て、ラグビーとの両立も大変ですが、周囲の人間を優しい気持ちにさせる笑顔で、夢を手にして欲しいです。小原一仁さん高等部1997年卒業。ボストンカレッジ 教育学部 人間発達学科2001年卒業。ボストンカレッジ 修士課程 教育学研究科 高等教育管理専攻2002年修了。カリフォルニア大学ロサンゼルス校 博士課程 教育学・情報教育学研究科 社会科学・比較教育専攻2005年修了。カリフォルニア大学ロサンゼルス校国際教育発達センター研究員(2002-2004)の後、2005年から玉川大学学術研究所研究員、助教を経て、玉川大学教育学部准教授。玉川学園学園教学部事務部長代理。◉「創立者の一族というのがプレッシャーでした。学生時代名前を書けば好きな点数をもらえるんでしょ?」と言われるのが嫌で、勉強とラグビーは一生懸命やったそうです。「米国留学時代は、どこの誰というレッテルから開放されてのびのびできました。(笑)」と話してくださいました。◉何しろ明るい。前途には多くのプレッシャーや困難が立ちはだかっているのは容易に想像できますが、ひいおじい様(曽祖父)から代々受け継がれてきたポジティブさ、明るさ、そして現代っ子ならではの豊富な知識と洞察力で、玉川学園の伝統と新風を共存させていただきたいです。Kazuhito ObaraSakurako KawasakiRugby football

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