学校法人 玉川学園 Puente 2012.06 vol.02


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礼拝堂へ向かう道をそのまま少し上り、道標に従い左に入ると、咸宜園と松下村塾がある。 「なぜここに?」と思われる人もいるだろうが、これもまた玉川教育の貴重な証しだ。 咸宜園は、江戸時代の儒学者広ひろ瀬せ淡たん窓そうにより、豊後日田(現大分県日田市)に塾舎として建てられた。淡窓は、労作教育、師弟同行、個性尊重などの教育を信条とし、ここでは、身分を問われることなく39年間で約3000人が学んだ。これこそ玉川学園の全人教育につながるものだと、学生たちの発案で咸宜園の模築は決定する。1967(昭和42)年、実際の大きさや形を測量するため、学生たちはまず日田市に現地調査に赴く。それをもとに建築場所を決め、松林を切り拓き、地ならしをすることからはじまって、1969(昭和44)年7月に完成した。完成式には小原哲郎先生が「この学園を、自己を見つめ、新しき魂を見出す道場としたい」と、小原國芳先生が「労作精神とは、物を愛する精神、自分が命を与えたものへの愛の心だ」という言葉を寄せた。 近年では、礼法の授業や茶道、華道の稽古場として活用されてきたが、老朽化により、整備計画が進められる。昔の工法そのままに造られた咸宜園は、現在の建築基準に達しない部分もあった。例えば、咸宜園の特長である茅かや葺ぶき屋根もその一つ。ただし、当時の学生たちの志や努力を思い、現存する咸宜園をなるべく忠実に再現しようと、極力茅葺屋根に近しい瓦かわら葺ぶきを採用している。建替え完成は2012(平成24)年7月を予定。KANGI-EN1969.7咸宜園茅葺屋根の面影残し写真左:咸宜園内部。左手には広瀬淡窓の座像が見える。ハコネウツギやカエデなどさまざまな樹木が植えられた庭園も学生の労作による。写真右:毎日10∼15人ほどの学生が放課後や長期休暇を利用して労作に励んだ。完成までに参加した有志の学生は計113人にのぼる。日本教育史、古典などの授業のほか、課外活動の筝曲や茶道の稽古場として親しまれた。建設は玉川学園の学生有志が集った「芳薪会(ほうしんかい)」を中心に、塾生の協力を得て2年がかりで完成した。現物を再現しようと、茅葺屋根の仕上がりにもこだわった。学生たちは材料となる茅(ススキなど)を集めに相模原地域まで出かけたという。4VOL.02


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