読み聞かせや絵本は「卒業」するものか?

2016.08.03
松山 巌

ある集まりで、公共図書館勤務の女性が「私たち司書が地域の小学校に出向いて、保護者や先生向けにブックトークや読み聞かせの講習を行っている」と話したところ、それを聞いた中年男性が「読み聞かせ? 絵本とかですか?」と不思議そうに聞き返した。「絵本もありますし、お話の本もあります」「でも小学生だったらもう自分で字が読めるでしょう? それなのに読んで聞かせるんですか?」「本に親しませるという意味もありますから」。
この方のように、読み聞かせは「まだ自分では字が全く、あるいは十分に読めない子のために、仕方なく読んでやるもの」と認識している大人によく出会う。「ねえ、これ読んで」と言われて「もう自分で読めるでしょ」と突き放す親もいる。
それならばなぜ、小説や詩の朗読会といったイベントがあるのだろうか(前述のような認識の人はそもそも存在を知らないかも知れないが)。聴衆のほとんどは、自分でも読める大人である(しかも既に同じ作品を自分で読んでいる人がかなりいるだろう)。
同じ文字の並びであっても、読み手によってそれぞれの解釈や感情等が加わり、異なった響きになる。聴衆は、その違いを味わうために聞きに来るのではないだろうか。
プロの俳優・声優などだからわざわざ聞きに行くのであって、親と同列には扱えない、と言われそうだが、俳優でも司書でも父母でも、そこに機械の合成音声とは異なるその人らしさが加わる点では何ら違いはない。その点で、前述の司書の「本に親しませる」という理由付けは(その効果は確かにあるだろう
が)いわば相手の土俵の上に乗って言い訳しているようで、少々残念である。もっと積極的な意味をもつ、本の味わい方の一つなのだ。
同様に「もう字が読めるのだから絵本なんか読んでないでこっちの本にしなさい」といった声が書店や図書館で聞こえてくると、非常に残念に思う。おそらく絵本を「字が多いと読み切れなかったり、まだ語彙が少ないので、仕方なく絵で補っている」ぐらいにしか認識していないのだろう。それは絵本に失礼
というものである。字だけの本が言葉だけで何かを伝えようとしているように、絵本は「絵と文章の両方を使って(時には絵だけで)」何かを伝えようとして、絵本の作者が積極的に選び取った表現方法なのである。
時々、絵本の読み聞かせで文字の部分だけ読めばいいと思っている人がいるが、文字が少ないページでも、あわててめくらずに、描かれている絵をしっかりと味わわせてほしい。
もちろん、「全ての人は大人になっても絵本を好きでいるべきだ」などと言いたいわけではない。読書にも好みがあって当然だ。しかし、絵本や読み聞かせを「仕方ない」「早く通過して卒業すべきもの」などと見下している人は、本当に読書の楽しさを知っているのだろうかと思う(そういう人に限って、子
どもが本を読まないのだが……と愚痴をこぼしたりする)。年齢や発達段階に関係なく、さまざまな本の良さを味わっていきたいものだ。

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 准教授
  • 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
  • 中学・高校の理科教諭(地学)を経て現職。
  • 専門は図書館情報学(情報資源の組織化を中心に)。
  • 著書:『CD-ROMで学ぶ情報検索の演習』『韓国目録規則3.1版日本語訳』(いずれも共著)など。
  • 学会活動:日本図書館情報学会、日本図書館研究会、日本地図学会など。
  • 関心のある分野は韓国、漢文、フォント、音声学、地質学、確率論など。
  • 趣味はカラオケ、地図読み。
  • 好きなものは辞典・事典、新聞の号外、計算尺、スコア(総譜)、クリスマスの音楽。