今日の道徳を支えるもの

2016.04.01
山口 意友

筆者は,ここ数年,戦前の道徳教育の根幹となった教育勅語や修身の研究を行っているが,これらの内容を知れば知るほど残念に思うことがある。それはこれらの内容を教育現場で肯定的に用いることができないという現実である。仮に修身教科書の内容を公立小中学校で道徳教育の教材として用い,それが露見したらどうなるだろうか。過去にも数度あったようにマスコミからの大々的非難を受け「炎上状態」になるのは想像に難くない。それは多くの国民が戦前の修身教科書は軍国主義的でとんでもない内容が記されているという先入観があるからである。
戦後の教育改革は教育勅語の廃止よりも前に修身の廃止から始まった。それは,昭和20 年12 月にGHQ から出されたいわゆる四大指令の4 番項目(「修身,日本歴史及び地
理停止に関する件」)に基づいている。「修身」廃止並びにGHQ の圧力によってなされた教育勅語の排除・失効決議(昭和23 年)の効力は今も続いており,上述のごとく修身や教育勅語の内容を公教育において肯定的に示すことはタブーとなっている。
だが少し考えてみよう。教育基本法により公立学校における宗教教育が禁止されているが,聖書にどのようなことが書いてあるかを示すことまで禁じられているわけではない。事実,「右の頰を打たれたら左の頰も向けなさい」(マタイ伝5 章39 節)や「自分にしてもらいたいことは,他の人にもそのようにしなさい」(黄金律,同7 章12 節)などの内容は歴史の時間や道徳の時間に紹介されることもあるが,それが肯定的に示されたとしても問題になることはない。なぜならそこには人類普遍の学ぶべき教えが示されており,教育基本法が禁じる「特定の宗教のための宗教教育」にはならないからである。
同様,教育勅語や修身が法的に排除されたにせよ,その内容を生徒達に示したとしてどのような問題が生じるのであろうか。問題が生じるのは戦前のようにそれらを絶対化し他を否定する場合に限られる。生徒達を自立させかつ自律心を有するような道徳教育が必要である以上,戦前の道徳教育を一律に全否定する前に教育勅語や修身に何が書いてあったかを示し,そのどこが問題でありどこは学ぶべきかを自ら取捨選択させる教育こそ,本来,必要とされる教育ではあるまいか。臭いものに蓋をする形で戦前の道徳教育を全否定するのではなく,歴史に学ぶという姿勢を教えることも教師たる者の務めではあるまいか。
戦前の国定修身教科書は明治37 年(1904)から昭和20 年(1945)までの41 年間使われたが,次のような5 回の改定を経ている。第1 期-明治37 年(1904)から。第2 期-明治43 年(1910)から。第3 期-大正7 年(1918)から。第4 期-昭和9 年(1934)から。第5期-昭和16 年(1941)から同20 年まで。
GHQ が教科書全回収まで命じた第5 期修身教科書は戦時中に約4 年間使われ,その内容を見ると以下のように大東亜共栄圏建設のための軍国主義的内容が多々示されている。
「日本よい国,清い国,世界に一つの神の国。日本よい国,強い国。世界に輝く偉い国。」(第5 期修身教科書 現在の小学2 年生用 十九「日本ノ國」)
「昭和十六年十二月八日,大東亜戦争の勃発以来,明るい大きな希望がわき起こって来ました。 ……日本人は御稜威をかしこみ仰ぎ,世界にほんとうの平和をもたらそうとして,大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。……身命をなげうって皇国のために奮闘努力しようとするこのおおしさこそ,いちばん大切なものであります。……このような心がまえで進む時,新しい世界は私たちの手でできあがるのであります。(同教科書 現在の小学6 年生用 二十「新しい世界」)
このような第5 期修身教科書の内容を見れば確かにGHQ が即刻廃止を命じたのもうなずけるが,それは第5 期修身教科書が,陸軍省軍務局長や海軍省教育局長らが文部省参与として編纂に強く干渉した特異な内容を有したものだったからである。冷静になって考えてみた場合,41 年間使われた中の最後の4年間の特異な内容をもって修身教科書を全否定することはあまりにも早計ではないだろうか。日本ではあまり知られていないが,当時の米軍当局は2 人の専門家に修身教科書や教育勅語についての調査にあたらせたところ,昭和12 年以前の修身教科書であれば,占領時下においても価値あるものとして活用できるという肯定的なものであったのである 1。
こうした事実を押さえた上で,第1 期から4 期までの修身教科書を読んでみると今日の道徳の礎とも言える内容が数多く発見される。
「世の中は礼儀で立っていくものです。人に対しては恭敬の念を失わず礼儀を正しくしなければなりません。礼儀が正しくないと人に不快の念を起こさせ自分は品位を落とすことになります。……我が国では昔から礼儀作法が重んぜられ外国の人から日本は礼儀の正しい国だと言われてきました。時勢はかわっても礼儀作法の大切なことにかわりはありません。……汽車・汽船・電車・自動車等に乗ったときには人に迷惑をかけないようにすることはもとより,不行儀な振る舞いをしたり卑しい言葉遣いをしたりしてはなりません。……また人の顔かたちや身なりなどをあざ笑ったりとやかく言ったりするのもかたくつつしむべきことであります。外国の人に対して礼儀を気をつけ,親切にすることは文明国人たる者の心掛くべきことであります。」
上記は第4 期修身教科書の小学校5 年生用で「禮儀」と題するものであり,第1 期以後いずれの期でも示されている内容である。「博愛」と題する箇所では,日露戦争時に敵艦を沈めたもののその乗組員六百余名を助けた話が示される。またよい日本人になるには,「多くの心得をわきまえているだけではいけません。真心をもってそれを実行することが大切です。真心から出た行いでなければたとえよい行為のように見えても,それは生気の無い造花のようなものです」(「よい日本人」の箇所)と示される。
こうした修身教科書 2 の内容をみてみると,今日の道徳が決して戦後教育によってのみ培われたものではなく,戦前からの継続性に基づいていることが明らかとなる。我々の先祖が修身教育によって身につけた内容は子供や孫に伝えられ,それが知らず知らずのうちに日本人の心に刷り込まれて今日に至っているという道徳の歴史的継続性を認識することも学校教育において重要なことではあるまいか。

参考文献
1 Robert King Hall “SHUSHIN: The Ethics of a defeated nation” Kessinger Publishing 1949 p.19 参照。
2 現在,手に入れやすいものとしては,八木秀次『精撰「尋常小學修身書」』小学館文庫2002 がある。第1 期から第5 期までの全文を知るには,海後宗臣『日本教科書大系〈近代編第3 巻〉修身』講談社1962 年などがある。

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 教授
  • 九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、道徳哲学、教育哲学、並びに応用倫理。
  • 福岡の純真短期大学を経て現職。
  • 著書:『教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2012)、「『反道徳」教育論-「キレイゴト」が子供と教師をダメにする-』(PHP研究所 2007)、正義を疑え!』(筑摩書房 2002)、『平等主義は正義にあらず』(葦書房 1998)、『女子大生のための倫理学読本』(同 1993)。共著に『教職概論』(玉川大学出版部 2012)、『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版 2009)、『情報とメディアの倫理』(同 2008)、『男と女の倫理学』(同 2005)、『生と死の倫理学』(同 2002)、『幸福の薬を飲みますか?』(同 1996 )。共訳に『環境の倫理』(九州大学出版会1999)、『健康の倫理』(同1996)。
  • 学会活動:日本倫理学会・日本教育学会・日本道徳教育学会・西日本哲学会・九州大学哲学会