自身の目と他者の目

2016.07.01
魚崎 祐子

2月下旬から3月初旬にかけ、通信制大学の視察を目的として守屋先生、田畑先生とともにイギリス、ドイツを訪れる機会を得ました。久々に訪れるヨーロッパの街並みは私にとって非日常的なものであり、物珍しく感じられるものに自然と目が向きました。そんな中、お2人の先生方はおそらくまったく気にしておられなかったでしょうが、ひそかに目で追っていたものがあります。それは子乗せ椅子のついた自転車です。

もともと私が自転車を趣味としているわけではありません。ただ、ちょうど出発直前に子乗せ自転車を買い替えたところであったため、自転車の形や機能、子乗せ椅子のメーカーや形などに対して少し敏感になっていたことが理由として考えられます。イギリスでもドイツでも、安定したスタンドなのか、運転する大人の足がひっかかりにくい形なのか、多くの荷物を入れられるカゴがついているのか、などといった私が自転車選びをする時に重視した点を備えていない自転車ばかりが目に入ってきました。写真に示した自転車はその一例で、オシャレで格好いいけれども、こんな高いバーのある自転車は日本では子乗せ自転車として推奨されないだろうと思います。子乗せ椅子がついていてもいわゆるママチャリ型ではないのだなあ、電動自転車に乗る人はあまりいないのかなあ、日本で安全だと考えられるポイントとの違いは何なのだろうなどと思いながら、普段の生活で見かける子乗せ自転車との違いを楽しんだり不思議に思ったりしていました。

自身のいる環境の中で、何かに気づき、目や耳といった感覚器官を働かせながら知るはたらきを、心理学では「知覚」と呼びます。知覚が成立するためには外界からの刺激と知覚する人の感覚器官が存在する必要があるだけではなく、知覚する人の知識や経験、興味、心構えなどが影響します。そのため、同じ環境にいてもある刺激を知覚する人としない人が存在し、同じ人であっても時と場合によって知覚するものがかわってくると考えられます。今回、私の目が子乗せ自転車に向いたのは、これらの条件が偶然揃っていた結果なのです。

日頃、テキスト学修に取り組む皆さんが同じテキストという刺激に向かい合っていても、その中のどの情報に着目し、どのように捉えるのかが人によって異なることや、スクーリングなどで同じ講義を受けたとしてもその受け止め方や理解の仕方が様々であるのも同様のことでしょう。特に通信教育部の学生の皆さんは、年齢や職業などが多岐にわたり、様々な背景に基づく認知構造が異なるため、同じ刺激に出会ってもその中のどこに気づき、どのように受け止めるかの多様性があると思われます。

私たちは同じものに気づいたり、同じように感じたりする相手に安心感を抱きやすいものです。しかし、自分に見えているものは相手にも見えているはずである、自分が感じていることは相手も感じているはずである、といった思い込みを持たず、異なる知覚を持つ人同士がお互いの気づきを共有することによって、自分の知覚していなかったことに気づく機会として受け止めることも可能でしょう。そして、それは自分自身の世界を広げる可能性にもつながるのです。

余談となりますが、今回、先生方とご一緒したことにより、私1人では見逃していたであろう日時計や自動車などに目が向いたことも書き添えておきたいと思います。

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 助教
  • 早稲田大学大学院人間科学研究科 博士後期課程修了
    博士(人間科学)
  • 専門は学習心理学、教育心理学
  • 早稲田大学助手などを経て現職。
  • 著書に『Dünyada Mentorluk Uygulamaları』(共著、Pegem Akademi Yayıncılık、2012年)、主要論文に『総合的な学習の時間における教師の支援が生徒の情報選択に及ぼす影響』(共著、日本教育工学会論文誌(30)、2006年)『テキストへの下線ひき行為が内容把握に及ぼす影響』(共著、日本教育工学会論文誌(26)、2003年)などがある。
  • 学会活動:日本教育工学会、日本教育心理学会、日本教授学習心理学会、日本発達心理学会 会員