道すがらの知-小さな赤い目覚まし時計-
2018.12.01
今尾 佳生
多摩川流域の神社仏閣の歴史と、民俗文化の古層に関心があって、近年折りをみては調査の小旅行に出たり、古文献に当たったりしている。きっかけは2年前に、東京都稲城市の文化財保護審議委員を委嘱されている関係で、郷土資料室主催の講演を引き受けたことだった。
依頼された題目は「稲城市内の延喜式内社」。延喜式内社というのは、この国が律令制によって営まれていた時代、年に一度朝廷から幣帛を送られる格付けをされた諸国の神社のことである。「延喜式」という平安時代中期の格式(律令の施行規則)集に記載されているのでその名がある。神祇官から幣帛を受けとる官幣社と、国司から受けとる国幣社とに分けられ、さらにそれぞれが大社、小社に格付けされている。日本全体で3132座、旧武蔵の国全体では44座があり、そのうち玉川大学が位置する多摩の郡には、いずれも小社ながらも武蔵の国内最大数である8座の神社が認定されている。
ただ、現在残っている神社のうち、どれが延喜式内社に該当するのかについては議論があって、いくつかの候補はあるものの、決定的にこれだ、と言えるものは実はそう多くはない。そうした候補として論議の的となっている神社は「論社」と呼ばれている。延喜式に記載されている旧多摩郡内で、現稲城市内にある論社は、東長沼の青渭神社(あおいじんじゃ)、大丸の大麻止乃豆乃天神社(おおまどのつのてんじんじゃ)、そして矢野口の穴澤天神社(あなざわてんじんしゃ)である。
この三社中、地勢や遺跡、古文献など傍証史料からみて延喜式内社と認めてほぼ間違いないのは穴澤天神社で、次いで大麻止乃豆乃天神社、最も議論伯仲しているのは青渭神社である。論争的であるということは、研究者にしてみればそれだけ魅力的ということなのだが、加えて講演の準備をしている際に気付いてしまったことが、講演から2年経っている今も私を研究に駆り立てている大きな動機となっている。それは青渭神社の論社として挙げられている、上記稲城市東長沼、調布市深大寺元町、青梅市沢井の各社に、かなり濃厚な古代朝鮮渡来氏族の影が差していることだ。
2017年4月の初頭、私は青梅市沢井にある惣岳山の山頂を目指した。青渭神社の奥宮を擁する惣岳山は、名高い武蔵御嶽神社の北方に向かい合っている標高756m程度の山である。遠目にはほぼ全体を杉の植林で覆われている。私は十代から二十代の初め頃まで登山が好きで、近くは丹沢、遠くは北アルプス南アルプスの山々に時折登っていた。いずれも標高1500〜3000m規模の山である。以来30年ほどの時は経っているが、1000mに満たない山など、まあ何とかなるだろうと高をくくって、ゆっくりと歩みを進めて行った。
中腹まで行ったあたりで、自分の愚かしさを思い知った。杉山とは見かけだけ、その実態は急峻な岩山であったことが山肌のところどころに顔を覗かせるいくつもの巨岩からすぐにわかった。そもそも杉などの針葉樹は地中深くに食い入る直根がないから、岩肌に根を張り巡らすことができるのだった。全くだまされた。後で調べたら、往古から現代まで修験道の山の一つであることもわかった。無謀極まりなかった。日頃大して身体を鍛えてもいない50男が気軽に登るなど、山の神に対して無礼千万な所行であった。
神罰はてきめんに下った。やっとの思いで山頂にたどり着き、調査をすませたはよいが、下山時に疲弊を極めた両脚の筋肉が遂にストライキを起こしたのである。両の腿を構成する何種類もの筋肉を同時につるという悲惨に見舞われた私は、人気の全くない登山道に180センチ超の無駄に大きい身体を投げ出して、自分の迂闊さ加減を呪いながら、激烈な痛みと闘ってしばらく呻吟するハメとなった。ようやくゆっくりと脚を前に進めるだけの回復をみてから這々の体で沢井の青渭神社里宮にまで下山を果したが、登山口に「熊を見かけた方はご連絡下さい」との看板を見つけたときは、流石にぞっとした。
愚かしくも痛い目にあったとは言え、この経験は私に重要な原理原則を想い出せてくれた。民俗学の鉄則中の鉄則である「実地踏査」の四文字である。日々の忙しさにかまけてついつい、文献資料に頼る研究に偏りがちだった私への強烈な戒めとなる体験だったのだ。
この惣岳山を国土地理院発行の25000分の1地形図で確認しても、記載されているのは標高を表す数字と、傾斜の目安となる等高線とその間隔、そして、だいたいの植生を表す針葉樹の記号などだけである。無論ある程度の経験があればそれはそれで現地の状況を思い描くことはできるし、図上の一箇所を周囲との関連性に於いて俯瞰的に把握で来るという地図のメリットは充分に強調されて然るべし、である。しかしやはり現場に身を置いたときに全身全霊で得られるあの感覚は、そうした概念的理解を一挙に軽々と凌駕する。
一例を挙げてみよう。まだ私の両脚が健全さを保っていた登山道中、岩肌が露出している箇所に、雨水の流れで穿たれたと思われる筋が無数に奔っているのを目にした。それはこうして急峻な山に降った雨が麓に向かって集まりつつ、沢を形成して行く様子を実に良く教えてくれた。「青渭神社」という名称から、この信仰が湧水地に対するものであることは想像がついていたが、実際に沢が形成される様子を目の当たりにすることで、ただの概念知が忽然と体験的な確信に変わったのだ。
さらに今回の踏査で、特に印象深かったことがある。山頂までの行程を半ば過ぎまで登った所に生えていた直径50㎝足らずの杉の根本を何気なく見遣ると、そのウロに何やら人工物がたまっていた。不埒な登山者がゴミでも捨てたかと、眉を顰めながら近寄ると、大山阿夫利神社のお守り、金属製のミニチュアの御幣、弁天と地蔵の小振りな像などに混じって、小さな赤いプラスチックの目覚まし時計が置かれているのがわかった。その杉の根方のウロは、即製の祭壇のようなものだったのだ。
民俗学の発想からすれば、これは樹木のウロに神仏の所在を認める心性が、古代から現代に至るまで連綿と受け継がれていることの一証左であると言える。しかしそうした学問的理解が得られたことよりも、私が心揺さぶられたのはどう見ても安物の小さな目覚まし時計の存在によってであった。
こうした神仏祭祀の小間物の傍らに、どこの誰が何を思って、この時計を残して行ったのだろうか。その動かなくなった長針短針が、止った時そのものを祀っているかのようでもあった。私はこの簡素な祭壇に、新しい信仰の発生を見た。
セレンディピティ(serendipity)という言葉がある。探訪探求の途上で、思いがけない幸運を手にしたり、価値ある何かを偶然発見することを意味している。そもそもは18世紀に活躍したイギリスの政治家兼小説家であるホレス・ウォルポールによる造語であった。彼が少年時代に読んだ『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話が着想の源である。
偉大な科学技術は意図された研究目的の達成によってではなく、偶発的な発見によるものであることが少なくないという。そのような世界的に影響力の高い研究者や技術者の方々には及ぶべくもないが、私のこの体験も、小さな小さなセレンディピティだったのではないかと思っている。
近年のわき目も振らない目標達成至上主義の世にあって、こうしたとりとめのない道すがらの一風景に心を残すことを忘れないようにしたい。学問の価値は辿り着いた地点にではなく、その途上にこそあるのではないだろうか。効率的に大規模な情報を集積して得られる俯瞰的な立場にあるよりも、たとえ不効率であっても全身全霊を総動員しつつ一歩一歩大地を踏みしめるその歩みの尊さ。ふとした発見の喜悦。両脚の痛みとともにそんな思いを新たにさせてくれた現場として、私は惣岳山を忘れることはないだろう。
プロフィール
- 所属:教育学部 教育学科
- 最終学歴:カリフォルニア大学ロサンジェルス校教育学大学院博士課程中退
- 専門:民俗学/教育社会学
- 職歴:・1993年 玉川大学文学部助手
・1994年 同講師
・2002年 玉川大学教育学部助教授
・2007年 同准教授
・2013年 東京都稲城市教育委員会文化財保護審議会委員、現在に至る
・2014年 早稲田大学教育・総合学術院非常勤講師、現在に至る
・2015年 玉川大学教育学部教授、現在に至る
・2018年 駒沢女子大学看護学部非常勤講師、現在に至る - 著書:・『教育原理』(共著)玉川大学出版部、2015年
・『教科力シリーズ 小学校社会』(共著)玉川大学出版部、2015年
・『教育課程編成論』(共著)、玉川大学出版部、2010年
・『宗教と生命倫理』(共著)ナカニシヤ出版、2005年
・『子ども学講座5 子どもと教育』(共著)、一藝社、2009年
他
・「教材としての『クマのプーさん』―思考を促す総合学習のために―」
(2017年度玉川大学教育学部共同研究)
・「民俗と思想形成−小原教育の淵源としての坊・久志の風土−」
『全人教育研究センター年報 第5号』玉川大学教育学部、2018年
・「猿田彦の身体-先導者のイコノロジー-」
『猿田彦大神フォーラム年報 あらわれ2号』、猿田彦大神フォーラム、1999年
・「落書きの社会学的研究のための予備的考察」『玉川大学学術研究所紀要 第3号』、1997年
他 - 学会活動:・芸能史研究会
・儀礼文化学会
・教育哲学会
・日本宗教学会