学校生活での当たり前

2019.04.02
魚崎 祐子

小学生時代、運動会は春と秋の2回開かれていました。中高時代も1学期に小さなスポーツ大会があり、2学期に体育祭が開かれていたので、春の小運動会と秋の大運動会というイメージはそのまま維持されました。学校現場と関わるようになり、運動会は春か秋かといった話題に触れる中で、「どちらか1回だけなんだ」と思いつつも、最近は先生も子どもたちも忙しいから年1回になったのだと解釈していたのです。ところが数年前、自分よりも年上の先生方に否定され、時代によって変わったわけではなかったのだということを初めて知りました。

また私の通っていた小学校には上履きというものがなく、校舎内を土足ですごしていました。中学校に入学後は上履きが存在したのですが、私は私立の学校だから上履きがあるのだと考えました。その後仕事をするようになり、多くの学校を訪れると大抵スリッパに履き替えていたのですが、それでも私の認識が変わることはなく、SNSで神戸特有の習慣の1つとして土足の学校が多いという話題を目にして初めて、全国的に見ると土足派は少数であるということに気づきました。

他にも給食の後は食器の汚れをティッシュで拭きとってから返却する、地域の観光地の写真が表紙になった各教科のノートがある、体育の授業のある日は朝から体育着を着て登校する、などといったものもどうやら多数派ではなかったということを知ったのは大人になってからのことです。このように、みんなが行っていると思っていた習慣が少数派だったということに今更ながら気づくことがあります。特に地域特有のやり方というのは少なくないようです。私たちは誰しも小学生として生活したことがあるため、自分の過ごした学校でのやり方を基にして当たり前だと思っているのではないでしょうか。スクーリングの際にそれぞれが学校生活の中で当たり前だと思っていたけれども実は当たり前ではなかったと後に知ったことを共有することがありますが、誰かが紹介したことについて「え?みんなそうじゃなかったの?」「○○県だけだったの?」とその場で初めて知る人が出てきたりすることも少なくありません。

私たちは自分たちの生活の中で経験したことを一般化しようとする傾向があります。それにより、次の流れを予測したり、別の機会に応用したりすることが可能になるというメリットがあります。しかしそれが非常に狭い範囲の出来事であったり、稀なサンプルであったりするにも関わらず一般化しすぎるとこのようなことが起こってしまいます。周囲の人と話が噛み合わないといったことにつながるかもしれません。

私の持っていた思い込みも、途中で違ったケースに出会っていたにも関わらず、もっともらしい理由をつけて、辻褄が合うように考えてしまっていたようです。何故そのような理由をつけて納得していたのか、今となってはわかりませんが、当時の自分が持っていた情報同士がうまい具合に結びついてしまったのでしょう。そして大きな矛盾を感じない限り、自分の思い込みが覆される機会というのはあまりないものなのかもしれません。

「学校とは~」「教室とは~」「○○の授業では~」など、限定された経験の中で固めてしまった思い込み、皆さんにもありませんか?

プロフィール

  • 教育学部教育学科 通信教育課程 准教授
  • 早稲田大学大学院人間科学研究科 博士後期課程修了
    博士(人間科学)
  • 専門は学習心理学、教育心理学
  • 早稲田大学助手などを経て現職。
  • 著書に『Dünyada Mentorluk Uygulamaları』(共著、Pegem Akademi Yayıncılık、2012年)、『テキスト読解場面における下線ひき行動に関する研究』(単著、風間書房、2016年)、『研究と実践をつなぐ教育研究』(共著、株式会社ERP、2017年)、主要論文に『配布資料の有無が授業中のノートテイキングおよび講義内容の説明に与える影響』(単著、日本教育工学会論文誌(39)、2016年)、『短期大学生のノートテイキングと講義内容の再生との関係−教育心理学の一講義を対象として−』(単著、日本教育会論文誌(38)、2014年)などがある。
  • 学会活動:日本教育工学会、日本教育心理学会、日本教授学習心理学会、日本発達心理学会 会員