道徳教材『手品師』再考

2020.10.01
山口 意友

1.はじめに

学習指導要領の改訂により道徳の授業は、従来の読み物中心の心情理解に偏った形式的指導(「読む道徳」)から、「考え、議論する」道徳への転換がなされた。子供達に考えさせ議論させるのであれば、その前提として教師側が何を考えるべきか、何をどのように議論をすべきかを意識しておかねば、従来の道徳教育と変わらなくなってしまうだろう。

そこで、この点について教育現場で定番の『手品師』という道徳教材を例にとって、一つ意地悪な質問を想定し、それを小学6年生A君からの質問という形で考えてみよう。先生である「あなた」はこの質問にどう答えられるだろうか?あらすじは以下の通りである。

2.「あらすじ」と「ねらい」

あるところに腕は良いがその日のパンも買うのもやっとというありさまの貧しい手品師がいた。彼は大ステージを夢見て日々腕を磨いていた。ある日、町を歩いていると小さなしょんぼりとした男の子に出会った。声をかけるとその少年は父親が死んだ後、母親が働きにでてずっと帰ってこないので寂しがっているとのこと。そこで手品師は手品を見せて喜ばせたところ、大喜びしたその少年から「明日も来てくれるか」と問われ「必ず来る」と約束して別れた。その夜、手品師のところに仲のよい友人から電話がかかってきた。その内容は、明日の大劇場で手品が催されるが、予定した手品師が急病のため代行者を探しているというものであり、友人はこの手品師を推薦したという。彼は考える。手品師として世間に認められる千載一遇のチャンスではあるが、そのためには今夜出発しなければならない。だが、明日は少年と交わした約束がある。しばしの葛藤の末、手品師は友人にこう答える。「せっかくだが先約があるので明日は行けない。」そして手品師は次の日、大劇場ではなく一人の観客のまえで手品を演じるのであった。

この教材は、文部科学省が示す、道徳の内容「A主として自分自身に関すること」における「正直、誠実」を主題としたもので 、その「ねらい」は「大舞台での活躍よりも幼い子供と交わした約束を守ることを選んだ手品師の姿を通して「誠実に生きる」とはどういうことかを考えさせ、自分の心に誠実に向き合い誇りをもって生きようとする判断力や心情を育てる」(光村図書「学習指導書」)とされている。指導案も手品師の心の葛藤を示しながら、最終的には少年との約束を守った「誠実な」手品師の姿が道徳的に描かれる。

3.暗黙の前提と児童からの質問

さて、この教材を扱う際にはその前提となる点を最初に確認しておかねばならない。それは、第1に、電話のような何らかの手段で約束変更の連絡をすることは不可能であるという点。第2に、少年と出会った場所に「急用ができたので行けなくなりました。今度会った時に必ず手品を見せてやるよ、ごめんね」と張り紙をするような連絡方法も不可能であるという点である。つまり「少年との約束を守る」か、それとも「守らないか(無断キャンセル)」の二者択一を前提とした教材として論じないと、教材における場面設定の不十分さに目が向き、本質的な目的を見誤ることになる。すなわち「自分の利得のために無断で約束を破ることの是非」を主題とした教材であるという点を前提しておかないと、以下のように道徳教材に全く値しない無価値なものと見なされることになる。

ある著名な教育学者は、この教材について「私には手品師の気持ちが分からない」とした上で、彼の生き方が不明として次のことを示していく。その日のパンも買うのもやっとというありさまなのになぜ電話があるのか。少年と会ったと言うがなぜ手品道具を持ち歩いているのか。手品師が専門家として出演することは親の臨終にあうよりも大事であるから約束破りの汚名を着ようとも出演すべきであり、出演しないのはこの手品師が不真面目であることを意味する 、等々。そしてこう結論づける。「こんな不まじめ、軽率、閉鎖的、非常識な人間〔手品師〕 の気持ちを考えろと言われても、私には考えられない。また考えるに値しない。そもそも大劇場への出演を選ぶか、それとも子どもとの約束を守るかという二者択一が非常識なのである。この人物に似つかわしい非常識である。その子どもをつれて大劇場に行けばいい。すぐその子を探そう。・・・この策がうまくいかなければ、その子に手品を見せるのは他の手品師に頼めばいい。・・・すなおな常識人はそう簡単にこの手品師のように二者択一のわなに陥ることはない。・・・二つのうちのどちらを選ぶかではなく、二つとも生かす道はないかと考える努力をするはずである。」(宇佐美寛『「道徳」授業に何ができるか』 明治図書2007年 p.10~33参照)(註1)

このような形で教材そのものの内容が徹底的に批判されるが、もし「二つとも生かす道」を探すのがこの教材を使った道徳教育であるならば、「急用ができた旨の張り紙を出会った場所にすればよい」で終わってしまうだろう。これは「無断キャンセルをしないためにはどうすればよいか」レベルの処世術から道徳を論じることの典型例となる。だが、自身の利得を優先するためにはどうすればよいかという功利的レベルから道徳を論じる前に、手品師の心底に潜む自身の利得と、先約遵守のどちらを意志の規定根拠に置くべきかについて考えることがこの教材を純粋な道徳として生かすための本質的な問題ではなかろうか。そのためには二項対立を前提してこそ、自身の利得から切り離された純粋な道徳の存在を導くことができるようになる。

こうした点を前提した上で、この教材を読んだA君は次のように問うてきた。先生である「あなた」はどう答えられるだろうか?

  • きたきた、先の見えたいつものキレイゴトですね!
  • 手品師の気持ちになって考えろと言うけれど僕らは子供だよ。
  • ところで結論は何ですか?約束を絶対に守れということ?それともそうではなく後は自分で考えろと言うこと?オープンエンドかなんか知らないけれど、結論を示さないのは先生の「逃げ」ではないのですか。(註2)

4.四つの行動パターン

手品師と少年、双方の立場から「約束を守る(◯)」「破る(×)」という形で整理すれば以下a~dの4つの行動パターンが生じることになるのだが、どういうわけか教育現場では手品師の心の葛藤としてa,bの場面だけが扱われる。(註3) だが現実にはcの場合も存在するし、dも台風などの自然災害を想定すれば十分にあり得ることでもある。

  手品師少年
a
b ×
c ×
d × ×

そこで教師がこの教材を使う際に意識しておかねばならない点を上記4パターンにおいて整理してみよう。この教材はa・b場面における「手品師」の葛藤を描き最終的にはaパターンに落ち着くわけだが、子供達には先に示した「お決まりのキレイゴト」といった潜在的な反発が存し、彼らの心には何も深い印象を残すことがないことに教師側も気づく必要がある。ここで「考える道徳」を強調するのであれば、通常のa,bにおける「手品師」の葛藤問題を最初に論じるのは問題ないにしても、そこで留まるのではなく次の問題としてcのパターンへと行く必要があるだろう。

つまり、手品師が自身の名声を得るチャンスを捨ててまでも少年との約束を果たしたにもかかわらず、その場所に少年が現れなかったという場面である。この教材の「ねらい」が示すように、それでも手品師は「誇りをもって生きようとする」ことができるであろうか。恐らく、「大きなチャンスを棒に振ってまでここに来たのに、少年が来ないとは…。こんな約束、守らなければよかった」という形で、手品師の約束遵守は後悔の念へと変わってしまうだろう。こうした後悔へと変わる行為がそもそも「正直、誠実さ」と言えるのかという視点である。

実は、このc場面の設定は、道徳の純粋性を量る意味での試金石にもなる。手品師が少年を喜ばせつつ自身の信用を守ることを目的として約束を果たしたのであれば、少年が来なかった場合には自身の意図は踏みにじられたこととなり、せっかくの約束履行という行為は怒りへと変貌する。しかし他方で、約束遵守そのものを目的とした純粋な行動であれば、仮に相手が約束を破ったとしても後悔へと変わることなく自身の行動に誇りを持つという、ある種の「道徳的満足」の存在を示すことができる。このことは単に「約束を守れば道徳的」という「行為」レベルではなく、さらにその行為者の心中にある「意志の純粋性」にまで立ち入って考えようとする道徳である。

さらにもう一つ、キレイゴトでは語れない現実が存在することも子供達に知らしめておく必要がある。この教材と同じことが実際に起きた場合、ほぼ間違いなく少年との約束は反故にされるだろう。なぜなら、大人は、約束には軽重があり別の日に埋め合わせのできる子供との軽い約束よりも、自身の一生を賭けたチャンスを得ることの方を優先すべきと功利的に考えることが一般的だからである。また子供同士が翌日に一緒に遊ぼうという約束をした場合でも、家庭に急な用事が生じた場合には、相手の連絡先を知らねばその約束を無断キャンセルせざるを得ない場合も実際にありうることである。キレイゴトでは語れないこうした「無断キャンセル」という現実をbの場面に戻って子供達に教えた上で、「約束を破られた側の立場(少年の立場)」として、自分だったらどう対処するかを子供達に考えさせることが必要となる。つまり約束を破った相手に対する単なる怒り・悲しみ・批判というような感情で終わらせるか、それとも先方に何らかのやむを得ない事情があったのではないかと推測し相手を許すという「思いやり・寛容」の心へと移行させるか、いずれが道徳的かを考えさせるという視点である。これは意志の純粋性を論じた先のc場面の「手品師」においても同様である。

5.おわりに

このように考えてみればA君の3つの質問には次のように返答できるだろう。

  • きたきた、先の見えたいつものキレイゴトですね!
    ⇒①’手品師が約束を守ることを道徳的でキレイゴトと思っているようだが、まだまだ甘いな!どうせキレイゴトと言うなら「究極のキレイゴト」を考えてみよ。それは手品師が約束を守ったが少年は来なかった。それでも自身の行為を後悔することなく誇りを持つ場面であり、さらに少年を許そうとする態度だ。
  • 手品師の気持ちになって考えろと言うけれど僕らは子供だよ。
    ⇒②’約束を破られた少年の立場になって、約束を破った手品師を許すかそれとも許さないか、自分がどちらのタイプの人間か、またどちらが道徳的かを考えてみよ。また同時に約束を守りたくても守れない場面としてどのようなものがあるか考えてみよ。
  • ところで結論は何ですか?約束を絶対に守れということ?それともそうではなく後は自分で考えろと言うこと?オープンエンドかなんか知らないけれど、結論を示さないのは先生の「逃げ」ではないのですか。
    ⇒③’結論は上記の①’②’だ。先生は、キレイゴトだけを語ってオープンエンドで終わらせるような道徳の授業をするつもりはないぞ!

「手品師」の授業において、従来の心情理解に偏った「読む道徳」を「考え、議論する」道徳へと転換させるつもりが本気であるのならば、この授業を2部構成にし、第1部を従来の手品師の利得実現と約束遵守の葛藤の場面、そして第2部を「(手品師は行ったが)少年は現れなかった」時の手品師の心情、そして「(少年は行ったが)手品師はいなかった」時の少年の心情というような、約束を破られた側の立場を想定する視点が必要である。将来自分自身に起こりうる可能性の高い、こうした「無断キャンセルされた場面」を想定して、「考え・議論すること」が道徳の授業をより具体的で深みのあるものにすることができるのではないだろうか。

  • 註1.
    宇佐美と同様の視点は松下良平『道徳教育はホントに道徳的か?』日本図書センター 2011年p.18~37の記述にも見られるものである。
  • 註2.
    「オープンエンド」とは、もともとは終わりが決められておらず中途で変更可能とするビジネス用語である。教育用語としては、「終了することなく考えることを継続させる」という観点から明確に教師が結論を示して授業を終えずに、考えることの継続を促す手法である。だが、実際には結論を明確に示さず、色々な考えがあるのでその判断は子供達に任せる、というようないわば「教師の逃げ道」として使われているのも事実である。これの反対となるのがクローズド・エンドというものである。
  • 註3.
    もし『手品師』の教材を、教育現場で行われているような「約束遵守の誠実さ」という観点だけから子供達に示したいのであれば、むしろ上田秋成の『雨月物語』に記される「菊花の約(ちぎり)」の方がインパクトがあるだろう。義兄弟の契りを交わした宗右衛門と左門が菊の節句(9月9日)に再会を約束して別れたが、義兄の宗右衛門は、立ち戻った故郷にて牢に閉じ込められることになってしまった。約束を果たすことができなくなった宗右衛門は、義弟左門との約束を守るべく自決してその魂にて彼に会いに行き約束を果たしたという内容で、自身の命よりも義弟との信義(約束)を重んじたという物語である。
  • 画像データは道徳科の6年生教科書である『道徳6きみがいちばんひかるとき』光村図書 平成30年 p122.123より転載。
プロフィール
  • 教育学部教育学科 通信教育課程 教授
  • 九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、道徳哲学、教育哲学、並びに応用倫理。
  • 福岡の純真短期大学を経て現職。
  • 著書:『〔改訂版〕教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2017)、「『反道徳」教育論-「キレイゴト」が子供と教師をダメにする-』(PHP研究所 2007)、『正義を疑え!』(筑摩書房 2002)、『平等主義は正義にあらず』(葦書房 1998)、『女子大生のための倫理学読本』(同 1993)。共著に『教職概論』(玉川大学出版部 2012)、『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版 2009)、『情報とメディアの倫理』(同 2008)、『男と女の倫理学』(同 2005)、『生と死の倫理学』(同 2002)、『幸福の薬を飲みますか?』(同 1996 )。共訳に『環境の倫理』(九州大学出版会1999)、『健康の倫理』(同1996)。
  • 学会活動:日本倫理学会・日本教育学会・日本道徳教育学会・西日本哲学会・九州大学哲学会