「できる」ことの評価

2022.04.01
魚崎 祐子

小学生のお子さんを持つ保護者の方々にとって、頭を悩ませる冬休みの宿題は書き初めではないでしょうか。夏休みの自由研究と同様、自主的に取り組んでくれるお子さんは別として、親がかりになりやすい宿題だと思います。私も毎年、冬休みに入った時から頭の片隅にあります。

今年のお正月も例年どおり、息子の書き初めの練習に付き合うこととなりました。本人に任せてしまえば気が楽になるのかもしれませんが、少しばかりの経験があるせいもあってか、つい横から口を出してしまいます。今回、学校から渡された清書用の半紙は3枚。その中で仕上げるしかありません。自宅にあった半紙を用いて何枚か練習した後、3枚勝負に突入しました。書いている最中も「そこでぐっと押さえて!」「右下に向かってもうちょっと(線を引き続ける)」「そこで止めて、ちょっとずつ力を抜いていく」などと我ながら煩すぎる声かけをし、息子は作品を書き上げました。

出来上がった作品を眺めて、「限られた時間や枚数の中ではなかなかうまく書けたのではないだろうか」と満足しつつ、「これは誰の作品なのだろうか」という疑問がふと湧き上がりました。筆を持ち、実際に動かしたのは紛れもなく息子自身であり、息子の作品です。しかし、線の長さや筆の動きなどについて、私が横から口を出していたから書けた作品であるなら、学校の先生は「自分だけの力で書いていないからダメ」と言われるかもしれません。「書き方を教えてもらうなんてずるい」などという声も出てくるかもしれません(ただ周囲の方々にお話をうかがうと、保護者の熱血指導が行われているご家庭は少なくなさそうですが…)。

ここで考えてみましょう。ある学習者が「できた」とみなされるのはどのような時なのでしょうか。

  • 完全に自分ひとりでできた時
  • お手本を見ながらであればできた時
  • ポイントを教えてもらえればできた時
  • 難しい部分を手伝ってもらえればできた時
  • ずっと横で助けてもらえればできた時

このように様々な場合が考えられます。どれを認めるかは人によって分かれてくるかもしれません。

ヴィゴツキー(Vygotsky, L. S.)は最近接領域という考え方を提唱しています。これは、発達において、自分ひとりで達成できる発達水準と周りの人との協同によってできることとの間に存在する領域を指します。そして、他者の力を借りることにより、少し背伸びをしたレベルのことに取り組むことができ、その連続が次の発達水準につながっていくという考え方をします。このように考えると、今回の書き初めの一件においても、私からの声かけによって達成できたレベルの延長線上には、個人でもできるようになるということが期待されるでしょう。

行動レベルで「できた」「できなかった」を判断するのは1か0(ゼロ)かのように思われますが、実際はその間にいくつものレベルがあり、その境目は曖昧です。私たちが評価をする際にどのような線引きをしているのかを改めて考えてみると、それぞれの教育観や発達観について振り返る機会にもなるのではないかと思われます。

プロフィール

  • 教育学部教育学科 通信教育課程 教授
  • 早稲田大学大学院人間科学研究科 博士後期課程修了
    博士(人間科学)
  • 専門は学習心理学、教育心理学
  • 早稲田大学助手などを経て現職。
  • 著書に『Dünyada Mentorluk Uygulamaları』(共著、Pegem Akademi Yayıncılık、2012年)、『テキスト読解場面における下線ひき行動に関する研究』(単著、風間書房、2016年)、『研究と実践をつなぐ教育研究』(共著、株式会社ERP、2017年)、主要論文に『配布資料の有無が授業中のノートテイキングおよび講義内容の説明に与える影響』(単著、日本教育工学会論文誌(39)、2016年)、『短期大学生のノートテイキングと講義内容の再生との関係−教育心理学の一講義を対象として−』(単著、日本教育会論文誌(38)、2014年)などがある。
  • 学会活動:日本教育工学会、日本教育心理学会、日本教授学習心理学会、日本発達心理学会、日本教師学学会 会員