教育と幸福の関係とは

2023.01.01
山口 意友

1.はじめに

一般に親は子供に対し「勉強しろ!」と口うるさく言う。子供からすれば毎度の事でうんざり気味であろうが、教師を目指す人は、なぜ親は子供に勉強しろと言うのか、こうした親の気持ちを知り、かつ教師になった暁には、それを児童生徒に教える必要があるだろう。

では、なぜ親は子供に対し勉強しろと言うのか。それは「将来、子供に幸福(しあわせ)になって欲しい」と願うからである。子供の幸福を願わぬ親はまずいまい。では、ここで言う「幸福」の具体的内容は何なのか?通信教育におけるスクーリングでは子供を持つ通大生も多いので彼らの意見を紹介したいが、その前に教育の基本構造について確認しておきたい。

2.教育の基本構造と幸福

周知の通り、教育の目的(教育基本法第1条)は「人格の完成を目指すこと」であり、その目的を達成すべく教育の目標(同2条第1項)が、「知育(幅広い知識と教養を身に付け)」「徳育(豊かな情操と道徳心を培う)」「体育・食育(健やかな身体を養う)」として示される。この「知育」「徳育」「体育・食育」の構造は「生きる力」においても同様である。

さて教育の基本構造を確認した上で、親が願う子供の幸福の具体的内容について考えてみよう。先述したとおり、通大生には子供を持つ人も多数いるので、彼らの意見を紹介するとおよそ次のようになる。

  • 大学卒業後、きちんとした会社に就職して経済的に自立、安定してほしい。
  • 性格のよい配偶者や友人知人に恵まれて欲しい。
  • 健康でいて欲しい。
  • その他:自身の夢を実現して欲しい、等々。

①~③を見て何か感じることはないだろうか。
①を実現するためには何が必要か。言うまでもない。「知育」が必要となる。親が経済的に困窮しながらも受験期に子供を塾に行かせようとするのも、より偏差値の高い高校・大学に行かせ、職業選択の幅を増やしてあげたいという親心の現れでもある。一流企業や公務員になって子供の将来の経済的安定を望む親は多いが、そのためには子供の成績を向上させ有名大学へ進むのが一番確実な道でもある。
②を実現するためには、「徳育」が必要となる。「類は友を呼ぶ」という格言に示されるように、性格のよい配偶者や友人知人を得るには、自身が同じくよい性格である必要があるだろう。
③を実現するためには「体育・食育」である。
④の「自身の夢を実現して欲しい」場合にはその夢の内容によって変わってくる。医者や弁護士になりたければ「知育」が主であろうし、プロスポーツ選手になりたければ「体育」が主となり、料理人であれば「食育」が重要となろう。

このように親は、子供がどんな職業に就くか、どんな人と結婚するか、ずっと健康でいられるか、これらによって人生の幸福度が変わることを自身の経験上よく知っているがゆえに、それを子供の幸福として願い止まないのである。

さて、このように親が望む子供の幸福を、学校教育における「知育」「徳育」「体育・食育」に対応させて考えると、学校教育は子供を幸福にするための基礎訓練の場と言うこともできるであろう。こうした点を押さえた上で、さらに「幸福」の内容について考えてみたい。

3.2つの幸福

子供の将来の経済的な幸福を実現するために親が最初に考えることは子供の知育向上であるが、実は幸福に関わるものとして徳育の問題もあることを忘れてはならない。そこで次に徳育と幸福の問題について考えてみよう。

幸福とは、一般に、「a欲望の満足」と言われている。例えば、金銭欲、所有欲、さらには遊び、グルメ等に象徴されるように、欲望が実現した際に生じる満足感である。先に示した「①将来の経済的な自立、安定」は、経済的に幸福な生活を送る上での必須条件となるだろう。また我々は憲法により幸福追求権が認められており、そこでは「他者に危害や迷惑をかけない限り、自身の幸福のために自由な行為が許される」こととなる。

ところが教育においては、「もう一つの満足感(幸福)」を示す必要がある。それは、「下心の無い行為、欲望に打ち克った行為の実現における満足感」、すなわち「b道徳的満足」の存在である。具体的に考えてみよう。例えば、10万円入りの封筒を誰もいない小道で拾ったとしよう。そこには防犯カメラもなく絶対に誰からも見られることのない状況である。その際、どういう行動に移るか。一つは「ネコババ」であり、それによって日頃買いたかった物やおいしい食事にありつけるという「欲望の満足」が可能となる。むろん決してばれないのだから罪に問われることもなければ、後ろ指を指されることもない。

ところがそれに反して「警察に届ける」という道もある。だがその場合にさら2つの道がある。一つは、「目の前にあるせっかくのお宝(幸福)を見逃してもったいなかったな。かくなる上は3ヶ月の間に落とし主が現れないことを祈ろう。そうすれば自分の物になるはずだから」と少なからず後悔の念を持つか、それとも「人が見ていなくても自身はまっとう意志に基づいてまっとうな道を選択した」という、いわば道徳的満足を意識するか、この2つである。いずれの場合も、対自的な道徳であるがゆえにその心底を他人が見ることはできないが、やはり欲望を有する人間の本性からして前者である場合も多いだろう。しかしここに、己自身に誇りを持つという道徳的満足の存在を示すことで、欲望から切り離された自律した意志を呼び起こすことができるようになるのではないだろうか。

4.おわりに

多くの親たちは子供の物質的な幸福を願うあまり、「知育」を重視しようとする。それは決して否定的すべきことではないが、同時に「徳育」、しかも対他的な道徳だけではなく対自的なさらには究極的な道徳の存在を示さねばならないだろう(※)。その理由はなぜか。言うまでもない。前述したように教育の目的が、人格の(形成ではなく)完成だからである。

筆者は小学校の道徳の時間で読んだ本の内容を今でも鮮明に覚えている。その本には、遠足から帰ってきた小学生と母親との会話が記してあった。小学生は帰宅するなり母親に憤懣やるかたない口調で次のように言った。「A君もB君も、お菓子100円以内という決まりを守らずにたくさんのお菓子を持ってきてた。僕は決まりを守ったからちょっとしか食べられなくて損したよ!」これに対し母親は次のように答えた。「規則を守らなかった彼らはよくないね。だけど、たくさんのお菓子を食べられなくて損したなと思うよりも、規則を守った自分に誇りを持つことが大切よ」と。小学生はにこりと領いて、遊びに出かけた。このことは欲望の満足はできなくても、規則を守った自分に誇りを持つという言わば道徳的満足の重要性を示唆したものと言えるだろう。学校教育では物質的な幸福を得るために「やりたいこと」を応援するだけでなく、同時に道徳的な幸福の存在にも気づかせ「やるべきこと」を示すことも必要なのである。

  • こうした究極的な道徳の存在に興味を持たれる方は、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』を読まれるとよい。かなり難解ではあるが、この本では「人格の完成」に象徴されるような究極的な道徳的意志の存在が示される。
プロフィール
  • 教育学部教育学科 通信教育課程 教授
  • 九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、道徳哲学、教育哲学、並びに応用倫理。
  • 福岡の純真短期大学を経て現職。
  • 著書:『〔改訂版〕教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2017)、「『反道徳」教育論-「キレイゴト」が子供と教師をダメにする-』(PHP研究所 2007)、『正義を疑え!』(筑摩書房 2002)、『平等主義は正義にあらず』(葦書房 1998)、『女子大生のための倫理学読本』(同 1993)。共著に『教職概論』(玉川大学出版部 2012)、『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版 2009)、『情報とメディアの倫理』(同 2008)、『男と女の倫理学』(同 2005)、『生と死の倫理学』(同 2002)、『幸福の薬を飲みますか?』(同 1996 )。共訳に『環境の倫理』(九州大学出版会1999)、『健康の倫理』(同1996)。
  • 学会活動:日本倫理学会・日本教育学会・日本道徳教育学会・西日本哲学会・九州大学哲学会