寺田寅彦『案内記』を読む

2023.05.01
松山 巌

今回は寺田寅彦(1878-1935)の随筆から『案内記』を紹介したい。寺田の本業は東京帝国大学理科大学(今の東京大学理学部)の教授で物理学者ということになろうが,随筆家としても知られる。自然科学者でありつつ,人文科学や社会科学を始め,絵画や音楽,俳句などにも造詣が深く,文章にもその博識ぶりが遺憾なく発揮されている。

寺田寅彦(1878-1935)
(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/))

この作品は,一時期高校の国語科の教科書に教材としてとりあげられていたことがある(『高等学校現代文I』三省堂,1999年)が,現在はどこの社の教科書にも載っていないようだ。一見さらっと読めてしまいそうな文章だが,筆者の言いたいことをきちんとくみ取ろうとすると,読む側にも物理学や科学史などに関する幅広い知識が求められる。さらに,通常の論説文や評論に比べると,連想ゲームに導かれて気の向くままに話題が次々と飛躍していくように見えたりする(著者の問題意識は一貫しているのだが)。教科書に載らなくなってしまったのは,授業での扱いが難しく学校現場で意外と不評だったのかもしれない。
内容をざっくりまとめてみよう。旅行には大別して2つのスタイルがあり,それぞれに長短がある。1つは案内者(ガイドさん)や案内書(文中に登場するベデカは旅行ガイドブックの代名詞。今も出ている)に頼り切ったオーソドックスなスタイル。安全だが今ひとつつまらない。もう1つはそれらに頼らず自分の感覚で見て回る。名所旧跡を見落とすかもしれないが,その代わりにどこにも載っていない良いものをみつけたりする。学問のしかたも旅行の2つのスタイルになぞらえて考えられよう。
とはいえ,単純にそのような主張をするための論説文ではない。確かにベースにはそのような意識があるのだろうが,それを題材にしつつ,言いたかったことを思いつくままに述べているようでもある。
この本を高校の国語の教材として扱うと,授業担当者に求められる力量もさることながら,どうしても国語科という教科における位置づけやら,単元のねらいやら,学習成果の評価やらといった種々のしがらみに制約されるのではなかろうか。むしろ読書会のテーマにして,全員予め読んできた上で,気づいたことや感じたことを自由に話し合ったら,さまざまな視点からの意見が出て,さぞかし興味深い場になりそうだ。
さて,そのような作品なので,個人的には,たとえば旅行の2つのスタイルについてだとか,イタリアの観光地で怪しげな「実験」をする現地案内者など,触れたいテーマはたくさんあるのだが,今回はとりあえず,この作品に登場する「参考書」という語に焦点を当ててみたい。
文中に「学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識」「専門の学術の参考書」といった表現がある。全国の高校の教室で,この「参考書」の意味をきちんと考えさせた授業はどのくらいあったのだろうか。特段の言及がなければ,生徒たちは日頃の高校の教科の勉強で使っている「学習参考書」(学参)をイメージして読んだのではないか。
だが,そうではない。これは図書館業界でいう「参考図書(レファレンスブック)」,すなわち通読を予定せず主として調べ物に便利なように編集された本を指す。
注意深く読めば,本文の中でも「いろいろなエンチクロペディ1やハンドブーフ2」「参照用の大部なもの」という言い方をしているので,学参とはちょっと違いそうだということに気づく生徒もいたかもしれないが,実際の授業はどんなだったのだろうか。百科事典はなんとなく分かるとして3,ハントブーフ(以下英語式にハンドブックで統一する)も,多くの教室では寺田が考えているものとは異なるイメージのまま進められたのではなかろうか。
最近出た本で「~ハンドブック」とつくタイトルのものをみてみると,『教職員の権利ハンドブック(202p)』『ミュージッククリエイターハンドブック(269p)』『花粉ハンドブック(127p)』など(括弧内はページ数),ある特定のテーマに関する情報が簡便に得られる,文字通りハンディな本が多い。しかし,『案内者』でいうハンドブックは「参照用の大部なもの」とあるように,ある特定の学問分野(たとえば数学とか図書館情報学とか)に関して,これまで蓄積されてきた研究の成果(現状,到達点)を体系的にまとめた本のことである。分量は1000ページを超すこともふつうにあるし,複数巻になることもある。値段は今売られているものでは数万円することも珍しくない。家にある人はあまり多くないだろうが,ぜひ一度図書館などで手に取って,どんなものか見てほしい。
寺田はいう。
「何かある題目に関して広く文献を調べようという場合にはいろいろなエンチクロペディやハンドブーフという種類のものはなくてならない重宝なものであるが、少し立ち入ってほんとうの事が知りたくなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリジナルの論文や著書を見なければならない。それでこのような参照用の大部なものを、骨折って始めから終わりまで漫然と読み通し暗唱したところで、すでになんらかの「題目」を持っていない学生にとってはきわめて効果の薄い骨折り損になりやすいものである。」
この「題目」は今日なら「(研究の)テーマ」というところであろう。そして彼が言いたいのは,この種のレファレンスブックは確かに便利だけれど,しょせんは二次資料であって,少しつっこんで考えるには,そこに書かれた内容の出典であるそれぞれの一次資料に当たれ,ということなのだ。
少し後の方で,アインシュタインが「相対原理」(今日では相対性原理とよぶ)を発見したため,それまでのニュートン力学における絶対論が俎上に載せられているが,ニュートンを罪人呼ばわりするのはおかしい(以上要約)と述べている。アインシュタインが一般相対性理論を完成させたのは1915年であり,『案内記』はそのわずか7年後に書かれている。寺田はこのころすでに帝大教授であったから,ドイツ語や英語で書かれた原著論文をリアルタイムに直接読んでいたであろう。一方,相対性理論に関する一般図書が日本語で刊行されるのは1921年以降であり4,ましてレファレンスブック類となると,『案内記』が書かれた1922年の時点でもまだ取り上げられていなかったと思われる。
相対性理論に限らず,情報の確度を上げたり詳しく知ったりするには,ソース(情報源)により近い情報にあたるというのは,基本的な情報リテラシーであり,それは学術研究でも日常生活でも同様であろう。インターネットの「まとめサイト」は確かに便利だが,まとめた人(案内者)に引きずられる可能性もあるわけだ。
そして,多くのハンドブックは,ある程度その分野について詳しい人を想定読者として作られている。したがって,初学者がこれだけを頼りに学びを進めるのはなかなか難しく,むしろ教科書として書かれている本を使った方が,急がば回れだったりする。
以上,文中の「参考書」の意味が明確になると,文章全体の言わんとするところがかなり違ってきたのではないだろうか。
このような調子で読み進めていくと,とても字数が足りないので,今回はこの程度にとどめるが,みなさんにはぜひともその全文をじっくりと読んで味わっていただきたい。幸い既に著作権は切れているため,インターネット上の「青空文庫」5で読むことができる。また,紙で読みたい方はたとえば岩波文庫の『寺田寅彦随筆集 第1巻』に納められている。
ところで,先に引用した箇所で,百科事典を漫然と通読しても効果は薄いという趣旨の記述があった。ここを読んで,そもそも百科事典を通読しようと思うだろうか,と疑問に感じた人は鋭い。
こんにち出版されている多くの百科事典は,用語を五十音順(あるいはABC順など)に並べているだけ(小項目主義という)なので,たとえ通読しても,さまざまな分野の用語が脈絡なく次々と現れるだけである。一方,かつては大項目主義の百科事典もあり,これは相当広い上位概念を項目として立てて,そのもとに数ページないし数十ページにわたる説明を載せる形式である。さらに,その大項目を,音順ではなくテーマ別に排列し,たとえば第1巻は数学,第2巻は物理学,などとすると,あらゆる分野のハンドブックの集大成のような百科事典となり,これならがんばれば通読できる。ちなみに,玉川大学は知る人ぞ知る百科事典の老舗であるが,一貫して大項目主義,テーマ別の巻構成であった。

この作品は当初,雑誌「改造」大正11年1月号に掲載された。昨年(2022年)で100周年になるが,今読んでもほとんど古さを感じさせない。
寺田の随筆には,地震や台風などの自然災害を取り上げたものも多い。『地震雑感/津浪と人間』(中公文庫)や『天災と国防』(講談社学術文庫)としてまとめられており,100年前からの警告の的確さ,鋭さに驚く。こちらも是非とも一読をお勧めしたい。

  • 1
    ドイツ語でEnzyklopädie, 百科事典
  • 2
    同じくドイツ語でHandbuch, 発音はむしろハントブーフに近い。英語でいえばハンドブック
  • 3
    分からなかったらこれも図書館に行って現物を手に取ってほしい
  • 4
    ざっとしか調べていないので,もしかしたらもう少し早いかもしれない
  • 5

プロフィール

  • 教育学部教育学科 通信教育課程 准教授
  • 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
  • 中学・高校の理科教諭(地学)を経て現職。
  • 専門は図書館情報学(情報資源の組織化を中心に)。
  • 著書:『Webで学ぶ情報検索の演習と解説』『韓国目録規則3.1版日本語訳』(いずれも共著)など。
  • 学会活動:日本図書館情報学会、日本図書館研究会、日本地図学会など。
  • 関心のある分野は韓国、漢文、フォント、音声学、地質学、確率論など。
  • 趣味はカラオケ、地図読み。
  • 好きなものは辞典・事典、新聞の号外、計算尺、スコア(総譜)、クリスマスの音楽。