創立者の足跡にふれて
2024.09.01
藤谷 哲
私は令和6(2024)年2月に、玉川学園の創立者・小原國芳先生(以下敬称略)の鹿児島での足跡にふれる機会を得て、鹿児島県を訪れました。私が訪問を通じて感じ取ったことについて、訪れたうち2ヶ所のことをご紹介しながら、お話しします。
一つ目は、日本キリスト教団鹿児島教会です。写真は礼拝堂。小原國芳が鹿児島市で過ごした時代からは場所が移転したとのことですが、九州新幹線・鹿児島中央駅からほど近い地にあります。
鹿児島県・現在の南さつま市で生まれた小原國芳は、鹿児島市で若い一時期を過ごし、当時の鹿児島県師範学校に通います。
さらに、小原國芳の経歴を見ると「電信技手をした」とあります。大隅半島で先ず就業したとのことです。従事するために電気通信を学び始めるのが明治33(1900)年、師範学校進学が明治38(1905)年と、電気通信を学ぶのが師範学校進学より前ですから、この従事も、教育を志すための礎だといえましょう。
電気通信技術と、鹿児島教会。以下の解釈は、私が工学部で情報通信技術を専攻し大学卒業したからかもしれません。それをお断りした上で申しますが、私がこのたび見聞して、若い時期の小原國芳にとり大きな礎だったのではないかと思えてきたことは、師範学校よりむしろ、プロテスタントの教会でした。
無線通信の実用的な始まりはマルコーニのモールス符号による無線電信通信成功とされ、それは明治28(1895)年です。電線を使った通信と併せ、飛脚や郵便制度に比べ決定的に高速の通信を実現する電気通信は、今の我々にとってのスマートフォン登場かそれ以上の、コミュニケーションの大革命だったことでしょう。その担い手を小原國芳は買って出たことになります。
他方、近代日本の興隆の中でキリスト教と結びつきを持った小原國芳のようすが、工学の私には、どこかしら、電気通信について学んだことと、近しい関心や関連を持つものに、見えました。私にはこの2つが、往時の小原國芳にとって「ともに【将来を見渡し、夢を託す対象】だった」のではないかと、みえたのです。
もう一つ紹介したい場所が、小原國芳生誕地公園(南さつま市)です。写真は生家跡の公園にある像です。子どもと関わり、語らおうとする姿です。
訪問した2月下旬、雨天の南さつま市は気温が20℃ほどまで上がり、さすが南国だと感じました。雨の公園にあった碑には次の碑文がありました。「郷人有志挙ってこの碑を建立し よってもって前途有為な若人の範となす先生を超える若人の出でよ」。
これはすごい、と感じ入りました。碑を据え、公園を整備下さった当時の皆様のすごさ、です。
私の関心の一つに科学コミュニケーションがあり、そこでは「インタープリター」「インタープリテーション」という語があります。この語はふつう通訳者を想起しますが、科学コミュニケーションでは、科学への造詣の濃淡がある人々や、そんな人々が共に暮らす社会での架け橋として、科学・技術の情報発信や交流を仲立ちして、科学・技術のストーリーとしての理解を助ける人のことを指す語として用いています。
僭越至極で申し上げることをお許し頂けるなら、私には、鹿児島県師範学校を卒業する以前に前述の礎があって、その後の教育に関する膨大な研鑽を経て、小原國芳はインタープリテーションの名手としてその後活躍し、そこに生誕地公園の碑がこう語るほどの人が集った、そんなストーリーが浮かんできました。
プロフィール
- 教育学部教育学科 教授
- 東京工業大学大学院 博士(工学)
- 専門は科学教育、教育工学、教科教育学
- 高校・中学講師、短大・大学講師、日本科学未来館科学コミュニケーター、大学准教授を経て、現職。