機械翻訳は便利だが

2025.05.01
松山 巌

今年(2025年)3月,共同研究で韓国を5日間旅行した。現地の小学校~高校の図書館に勤める司書教師や,大学で司書教師養成課程を担当する教授,あわせて約10名にインタビューするのが目的である。研究メンバーの中で韓国語ができる人が他におらず,事前の日程調整のメールのやりとりや,予備調査として,韓国で発表されている論文の情報を共有するために概要を日本語訳する作業などは私が行った。
今回はかなり機械翻訳のお世話になった。論文を一から翻訳して入力するより,予め機械に下訳させて,誤っているところは訂正し,不自然な表現は手を加えるというプロセスをとった。確かに楽である。全体の作業量は数分の一に減ったのではないか。
ただ同時に,機械翻訳だけで済ませることの危険性も感じた。全体として何が書いてあるかをざっと知る程度なら,機械翻訳されたものを読むだけでもまあ分かる。しかし,訳語の選択の適切さや,原文の表現における用語の微妙な使い分けなどは,必ずしも満足のいく結果ではなく,人が目で見て確認し,推敲しないと不安が残る。
ある機械翻訳は,訳文だけを一見すると,読みやすい流麗な日本語になっている。しかし,エッセイなどならともかく,学術的な内容の文章の場合は,読みやすさを重視するあまり用語が不適切だったり背景が考慮されていなかったりして,結局ほぼ全面的に訳し直すことになり,すぐに使うのをやめてしまった。また,別の機械翻訳では,韓国における学校図書館の専門職である「司書教師」を,何度学習させても日本の「司書教諭」に直してくるので,あきらめてしまったこともあった。(韓国の「初等学校」を「小学校」とするのは,日本の小学校とほぼ同等なので許容範囲だろうが,司書教師はその専門性の高さにおいて,わが国の司書教諭とはかなり異なるので,用語は区別したいのである。)
何種類か試してみて,最終的には韓国で開発されたある機械翻訳を主に使うことにした。ブラウザ上でテキストを貼り付けると数カ国語に訳してくれる。グーグル先生に比べると対応言語は少ないが,精度はかなり高いように感じられた。また,スマホアプリ版では,カメラで文字を認識して画面上に訳を貼り付けて表示するという,近頃よくみかけるいわゆるレンズ機能も搭載されており,同行した先生が現地でしきりと愛用していたが,これもかなり精度が高いようだ。
外国語(韓国語に限った話ではないのでX語とする)の文章を書くとき,「言われれば分かるのだが,自分では表現が出てこない」ということがよくある。従来はそのような場合に,和X辞典を引いたり,「X語ビジネスレターの書き方」的な本の例文を参考にしたりしたが,今回はそれに機械翻訳が加わった。「こういうとき,どういうんだっけ」という場面ではたいへん便利なツールである。ただ,論文のときと同様,得られた結果をうのみにするのではなく,最終的に自分の目で見て読み直した方がよさそうだ。
ちょっと裏技というか,あまり一般的でないと思われる使い方を紹介しておこう。最終的に書き上げた韓国語のメールの文章を送る前に,全体を再度読み直すのだが,この段階で,機械翻訳にかけて日本語に直してみるのである。すると,何カ所か不自然に感じられるところがある。ハングルのタイプミスということもあれば,韓国語の表現として再考が必要な箇所もある。いずれにしても,送信前にこの一手間を掛けることで,変な文章の度合いはかなり減ったはずである。
特に学術的な文章では,同じ用語でも,使われるジャンルが,例えば図書館情報学なのか心理学なのか情報工学なのかによって,意味合いが微妙に異なったり,また同じジャンルでも人によって独自のこだわりを持って使っていたりすることがある。きちんとした翻訳には,その分野の知識をバックグラウンドとしてもっていることが必要であろう。機械翻訳にそこまで要求するのはなかなか難しいのではないか。むしろ,中途半端にそういった配慮を身につけた機械翻訳が(人間による翻訳でもそうだが),かえってとんちんかんな訳文を生成する危険性もある。
機械翻訳を活用しているのは韓国の先生方も同様で,ある高校を訪問したときは,前年度の運営報告書をグーグル翻訳してプリントアウトしたものをいただき,それを見ながらお話を伺った。訪問者の便宜を図ってくださったのであろう。ただ,残念なことに,グーグル先生も時々間違うので,所々に意味不明の単語や表現がある。表紙に書かれている図書館の名称をむりやり翻訳しておかしなことになっていたりする。最終的には,原本のPDFを送っていただいた。
翻訳が利用できるというのは便利なことである。翻訳を通して私たちは世界のさまざまな文化に接し,学問を学ぶ。ただ,問題はその先で,場合によっては原典に当たる必要が生じるのではないか。特に,人文・社会科学系の学問の場合。
誤解のないように付け足しておくが,なんでもかんでも原典に当たるべきだとか,翻訳で身につけた内容は本物ではない,と言いたいのではない。そんなことを言っていたら,語学の学習だけで人生が終わってしまう。ただ,原典に当たらないと見えてこない部分,わからないところ,というのも存在するのではなかろうか,という話である。
最近のAI技術の進展と相まって,機械翻訳の精度は大いに高まっているのは確かだし,これからさらにレベルアップしていくだろう。自分も,もし訪問先が韓国でなく,文字すら読めない他の国であったら,ほとんど頼り切ったかもしれない。また,学問の場でも,翻訳が出ていない外国語の書物を読まなければならないとき,機械翻訳が利用できれば,本を開いたときの障壁は大いに低くなるだろう。
ただ,昨今よく耳にする,AI翻訳があれば外国語の勉強など不要だという言説には,ノーと言いたくなる。これまでも述べてきたように,「最後の詰め」の部分では,人間の手による修正がほしくなるのである。また,いくら精度が高まっても,間に機械というワンクッションが挟まっていることによるモヤモヤ感は最終的に残るのだ。表現や語彙力がつたなくても,自分の言葉で相手とやりとりできた際に感じられる喜び,また原文をじかに読んで理解し味わえたときの喜びは,大げさに言えばコミュニケーションのなにか根源的な本質につながっているのではなかろうか,などと考えながら帰国した。

プロフィール

  • 教育学部教育学科 通信教育課程 教授
  • 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
  • 中学・高校の理科教諭(地学)を経て現職。
  • 専門は図書館情報学(情報資源の組織化を中心に)。
  • 著書:『Webで学ぶ情報検索の演習と解説』『韓国目録規則3.1版日本語訳』(いずれも共著)など。
  • 学会活動:日本図書館情報学会、日本図書館研究会、日本地図学会など。
  • 関心のある分野は韓国、漢文、フォント、音声学、地質学、確率論など。
  • 趣味はカラオケ、地図読み。
  • 好きなものは辞典・事典、新聞の号外、計算尺、スコア(総譜)、クリスマスの音楽。