教師という道

2025.12.01
三好 浩一

 私は、今から約40年前、この玉川大学を卒業しました。この玉川の丘で学んだ4年間は、卒業後の人生の10分の1にすぎません。しかし、教師となった私の人生にとってこの4年間は、大切な歩みの基礎を作ってくれた場所として、大切な思い出になっています。当時の玉川大学は、まだまだ山の中の学校という雰囲気を漂わせ、ウズラの親子が歩いている坂道を登って、文学部第二校舎に通っていました。現在建設中の体育館の先にあるグラウンドや記念体育館が新しく建てられ、体育祭に参加したことを覚えています。頼りない松陰橋が立派な道路付きの橋になり、学園も近代化してきた頃でしょうか。授業の合間には労作活動や礼拝堂での礼拝があり、心身ともに鍛えられた感じがします。楽しかったコスモス祭の後、ドキドキしながら大グランド(今の野球場)で女子学生とフォークダンスを踊ったことを思い出します。また、友達と駅前の居酒屋でお金を出し合ってつまみを注文し、飲みすぎて終電を逃して、カエルの鳴き声を聞きながら、田んぼを歩いて友達の下宿にもぐりこんだこともありました。当時は、文学部教育学科であったこともあり、授業内容も教育哲学や西洋教育史、日本史や国文学等、幅広く様々な学びをしました。卒業後、新任教師になったとき、先輩の先生から専門は?と聞かれて、全人教育ですと答えて、不思議な顔をされたのを覚えています。でも今では玉川での学びを誇りに思っています。当時、玉川学園には塵一つ落ちていませんでした。見たらすぐ学生が拾っていたからです。学生や生徒、児童が学び舎をみんなで守っていました。
 卒業後、私は伊豆諸島の新島に小学校の教諭として赴任しました。当時は採用の少ない時代で、東京都でも、島でもどこでも行きますと言わないと4月1日採用はほぼなかったのです。赴任校は新島本村立若郷小学校という全校40人ほどの学校でした。受け持ちは、5年生4人。家庭教師のような授業でした。でも、目の前に学校があり、子供がいる。自然の中でともに暮らし、ともに学びました。純朴な子供たち、6年生になると駐在所の子が本土に帰ってしまい、3人のクラスに。3人でする運動会種目。3人でする学芸会。校長先生と私と5人の修学旅行。3人だけの卒業式。そして、3年後の別れ。紙テープが切れる、汽笛が鳴る。涙が溢れました。そんな彼らも今では50歳を過ぎ、どうしているのでしょう。
 あれから38年間、教師という道を紆余曲折しながら、時には挫折し、時には歓喜しながら歩んできました。長い教師人生を振り返って、私を支えてくれたのは、いつも目の前の子供たちの存在だったと退職してしみじみ感じました。ご縁があり、再びこの丘に戻ってくることができました。教師の仕事は、ブラックだと言われますが、生半可な気持ちでは勤まらない日々真剣勝負の職場であることは間違いありません。でも、日本全国津々浦々に学校があり、子供たちがいます。玉川大学の創立者である小原國芳が目指した「夢の学校」が私たちの目の前にあり、そこには先生を待つ子供たちがいます。教師という道にここがスタートでここがゴールだという地点はありません。そこに学校があり、子供たちがいる限り、「夢の学校」はあなた方を待っています。通信教育の課程を受けられる方々の授業に行くとまなざしの真剣さに圧倒されることがあります。これまでの自分の仕事を投げ打ってでも、教師になりたいという強い志を感じるからです。健闘を祈ります。

プロフィール

  • 所属:教師教育リサーチセンター教職サポートルーム
  • 役職:客員教授
  • 最終学歴:玉川大学文学部教育学科
  • 専門:小学校教育(社会科教育)
  • 職歴:・東京都新島本村、世田谷区、府中市、小学校教諭
       ・東京都世田谷区小学校主幹教諭
       ・東京都世田谷区小学校副校長
       ・東京都町田市小学校長