道徳的自由について

2014.02.05
山口 意友

ちょっと堅い話ですが、教育基本法にも示されている教育の目的について、お話しましょう。教育の目的である「人格の完成」を「道徳性」と捉えるとすれば、それは一般に「自律性」と等値して考えられます。そしてこの自律性は「道徳的自由」と密接な関係を持っています。

「自由とは何か」と問われたら、どう答えられるでしょうか?通常は「好きなことをやってよい」という観点から答えるのが一般的です。むろんそこには他人への配慮が必要とされますので、「他者に迷惑や危害を与えない限りで、自分の欲することを自由に行ってもかまわない」という他者危害則に基づく自己決定権という形で論じられます。けれども、ここで示された「自由」はあくまでも「欲望の自由」を意味するのであって、「自律」を導き出す「道徳的自由」ではありません。

もともと自由とは「他から切り離されている」という事を意味しています。例えば「報道(言論)の自由」とは、好き勝手に報道してよいということではなく、「国家権力から切り離されていること」を意味しています。共産主義国家や独裁国家で「自由がない」というのは国家権力から拘束を受けているからです。

では、道徳的自由とは何から切り離されているのでしょうか?それは、第一には本能や欲望から切り離されていることを意味します。それ故「欲望の自由」とは真逆の意味となります。我々は腹が減れば腹を満たそうとするし、欲しいものがあればそれを手に入れようとします。その意味で動物と同様に本能や欲望に支配されているのです。しかし、動物と異なる点は、そこに自らの本能や欲望を規制しようとする意志が働くという点です。たとえどれほど腹をすかせたとしても人様の物には手を付けないというような意志は、人間だけに与えられた意志であり、これこそが道徳的自由の可能性を示すものです。

だがこの場合、「もし見つかったら法律によって罰せられるから」という思いで、「人様の物をとらない」のであれば、それは別の欲望、すなわち「罰せられるのは嫌だ」「人様から後ろ指さされるのは嫌だ」という欲望によって支配されていることになります。それ故、たとえ道徳的な行為が為されているようにみえたとしても、欲望によって支配されているわけですから、それは道徳的には自由ではないことになります。

誰もいない真っ暗な夜道で10万円を拾ったとしましょう。そこには「ネコババする意志」と「警察に届ける意志」という二つの選択肢があります。ネコババすれば、それは「欲望の自由」を行使したことになります。けれども他人の目が全くないにもかかわらず、つまり決してばれる恐れが無いにもかかわらず、あえて警察に届けようとする意志は自らの欲望から切り離されており、道徳的自由の行使と考えられます。

恥の文化が発達している日本においては、「人様に後ろ指をさされるような事はしてはいけません」というような道徳的命題に象徴されるように、「他人の目」を意識した道徳が発達しているのは周知のことです。しかし、この命題は確かに道徳的に見えるものの、「他人の目」に支配されている以上、純粋な道徳的自由の行使とは言い難いものです。本能や欲望だけでなく「他人の目」からも切り離された時はじめて道徳的自由が成立するという点を押さえておかないと、自律や人格の問題について語ることはできなくなってしまいます。
 
こうした点に興味がおありの方は、カントの『実践理性批判』や『人倫の形而上学の基礎づけ』(右画像『カント全集7』岩波書店)を読まれてはいかがでしょう。

(「玉川通信」2012年2月号をベースに加筆修正)

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 教授
  • 九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、道徳哲学、教育哲学、並びに応用倫理。
  • 福岡の純真短期大学を経て現職。
  • 著書:『教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2012)、「『反道徳」教育論-「キレイゴト」が子供と教師をダメにする-』(PHP研究所 2007)、正義を疑え!』(筑摩書房 2002)、『平等主義は正義にあらず』(葦書房 1998)、『女子大生のための倫理学読本』(同 1993)。共著に『教職概論』(玉川大学出版部 2012)、『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版 2009)、『情報とメディアの倫理』(同 2008)、『男と女の倫理学』(同 2005)、『生と死の倫理学』(同 2002)、『幸福の薬を飲みますか?』(同 1996 )。共訳に『環境の倫理』(九州大学出版会1999)、『健康の倫理』(同1996)。
  • 学会活動:日本倫理学会・日本教育学会・日本道徳教育学会・西日本哲学会・九州大学哲学会