道徳の形骸化を止めるには

2014.05.28
山口 意友

学校教育における道徳の形骸化が言われて久しいが,政府は現行で「教科外」となっている道徳を「特別の教科」とし早ければ2018 年度の実現化を目指すという。道徳は週1 回の「道徳の時間」で授業が行われているが,それが形骸化している原因はどこにあるのだろうか。大学の教職課程において「道徳」が半期2 単位しか開講されないため,道徳の指導を行うことのできる教員が育たないとも言われているが果たしてそうだろうか。
そもそも義務教育における道徳は,倫理学のような道徳の専門知識を教えるのではなく慣習や伝統に基づく一般常識を教えるものであるから,それなりの指導書さえあれば十分な指導が可能なはずである。それができていないのは,大学のカリキュラムよりもむしろ道徳教育の依拠する「指導書」に問題があるからではないだろうか。
道徳の授業は,『学習指導要領解説 道徳』(以下『解説 道徳』)に基づいて行われるが,そこには誰も反論できない抽象的な美辞麗句が満載されている。例えば,挨拶の指導は挨拶を通して礼儀の重要性を教えるという内容になっているが,『解説 道徳』の「挨拶」に該当する箇所にはこう記されている。「礼儀は,相手の人格を尊重し,相手に対して敬愛する気持ちを具体的に示すことであり,心と形が一体となって表れてこそその価値が認められる」(『解説 道徳』p.42)。
これを読んで現場の教師は「なるほど」と思うだろうか。そうではあるまい。むしろ本音では次のように思うのではなかろうか。「礼儀の建前は確かにそうだろう。だが我々は敬愛の気持ちどころか憎しみをもっているような相手にも礼儀正しく接しなければならない時もある。こんな建前論だけの道徳では心に響かない」。
もし本当に礼儀が敬愛の表明であるとするならば,我々は自分が敬愛するわずかばかりの人にしか礼儀を尽くさなくてすむことになる。だが現実はそうではない。つまり建前論だけの道徳が示されても教師側の納得がなければ決して生きた道徳教育はできるものではない。「敬愛の表明」「気持ちがよくなるように」というような綺麗な説明だけは,関わりを持ちたくない嫌な相手にもなぜ挨拶をしなければならないのかという本音の問いには答えていない。
「挨拶とは相手に対して敵意がないことの形式的表明である」旨が示されるだけでもよい。そうすれば,挨拶を無視された際に生じる怒り,すなわち「こちらは挨拶したのに相手はそれを無視した。相手は自分に敵意を持っているな」という誰もが経験したことのある思いや,そうならないための返礼の重要性を本音のレベルで説明することができるようになる。
一例ではあるがこうした本音の問いに具体的に答える指導書があってこそ,生きた道徳教育が可能となるのではなかろうか。理想論だけではなく本音に対応する道徳教育がなされないと道徳の形骸化はいつまで続くことになるだろう。(なお美辞麗句で固められた道徳の様々な問題点については,拙著『反「道徳」教育論─キレイゴトが子供と教師をダメにする─』PHP 新書にも記しているので,興味のある方は読まれてください。)

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 教授
  • 九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、道徳哲学、教育哲学、並びに応用倫理。
  • 福岡の純真短期大学を経て現職。
  • 著書:『教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2012)、「『反道徳」教育論-「キレイゴト」が子供と教師をダメにする-』(PHP研究所 2007)、正義を疑え!』(筑摩書房 2002)、『平等主義は正義にあらず』(葦書房 1998)、『女子大生のための倫理学読本』(同 1993)。共著に『教職概論』(玉川大学出版部 2012)、『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版 2009)、『情報とメディアの倫理』(同 2008)、『男と女の倫理学』(同 2005)、『生と死の倫理学』(同 2002)、『幸福の薬を飲みますか?』(同 1996 )。共訳に『環境の倫理』(九州大学出版会1999)、『健康の倫理』(同1996)。
  • 学会活動:日本倫理学会・日本教育学会・日本道徳教育学会・西日本哲学会・九州大学哲学会