真理とは何か?(真理の二義性)

2015.04.06
山口 意友

「真理とは何か」というこの問題は,古代ギリシャ時代から哲学の究極的課題であるがゆえに,そうそう明確な答えがでるものではない。だが,教育基本法には「真理と正義を希求し……」(前文),「真理を求める態度を養い……」(第2 条)と記されているし,また「道徳の内容」にも「真理を大切にし……」(小学校56 年1 -⑸)「真理を愛し……」(中学校1 -⑷)というように,色々な箇所で示されている。「真理」を教育現場において児童生徒に伝えなければならないのであれば,当然のこと,「真理とは何か」についてある程度の知識も教師側に必要となるだろう。
アリストテレスは,「大工と幾何学者では異なった仕方で直角を求める」(『ニコマコス倫理学』)と言ったが,教師と保護者では異なった仕方で真理を求めるのかもしれない。かなり以前のことだが,「氷が解けたら何になる?」という問いを教師が児童に向けて行ったところ,ほとんどの児童は「水になる」と答えた。だが1 人の児童は「春になる」と答えた。教師はバツを付けたが,それに対してその保護者が子供の自由な発想を否定するのかという形で文句を言ったという。この話は,当時,新聞に掲載され「子供の自由な発想」論議に火を付けた。(詳細は,沢木耕太郎『ポーカー・フェース』新潮文庫にも記されている。)
こうした保護者の文句に対し教師はどう対応すべきなのか。保護者の言う「自由な発想」を認め,バツをマルに訂正すべきなのか。
「氷が解けたら春になる」は,「子供の自由な発想」から生じたものとして確かにユニークであろうが,科学的な正しい答えではないことは明らかである。それは,夏に氷が解けても春にはならないという単純な理由だけではない。問題は日本語表記の特徴でもある主語の省略を正しく理解していないからである。「氷が解けたら何になる?」の問いには,「氷が解けたら“その氷”は何になる?」という主語が省略されているのであり,その構造を理解して初めて正しい答え(真理)へと到達できることになる。この構造や正しさを教えるのが学校教育における教科であり,それは事実判断における正しさを対象とする。それゆえ真偽は明確となり正解・不正解の判断が可能となる。それに対して「自由な発想」という観点から様々な答えが容認されるのは善や美を問うような価値判断における正しさである。この両者をきちんと区別しておかないと,事実判断に基づく科学的真理を問う場面で叙情的な答えを返され,それに感心し否定できなくなってしまうということにもなりかねない。
つまり,ここで押さえておかねばならないことは「真理(正しさ)」の二義性である。ひとつは,事実判断として正解が明確に決まっており真偽関係のはっきりするもの。例えば,天動説と地動説を考えても分かるように,いずれが正しいかは明確である。この正しさが科学的な真理であり,その対象は自然科学的分野だけに留まらず,社会科学・人文科学など多岐に亘る。他方,善や美などへの問いは,各人の価値判断に基づいているがゆえにその主観的な捉え方は千差万別となり,いわゆる「自由な発想」の余地が生じてくる。児童生徒に真理を示すのが教師であるとするならば,児童生徒に投げかける問いが事実判断と価値判断のいずれに基づくものか,こうした真理の二義性を教師側が知っておく必要があるだろう。

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 教授
  • 九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、道徳哲学、教育哲学、並びに応用倫理。
  • 福岡の純真短期大学を経て現職。
  • 著書:『教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2012)、「『反道徳」教育論-「キレイゴト」が子供と教師をダメにする-』(PHP研究所 2007)、正義を疑え!』(筑摩書房 2002)、『平等主義は正義にあらず』(葦書房 1998)、『女子大生のための倫理学読本』(同 1993)。共著に『教職概論』(玉川大学出版部 2012)、『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版 2009)、『情報とメディアの倫理』(同 2008)、『男と女の倫理学』(同 2005)、『生と死の倫理学』(同 2002)、『幸福の薬を飲みますか?』(同 1996 )。共訳に『環境の倫理』(九州大学出版会1999)、『健康の倫理』(同1996)。
  • 学会活動:日本倫理学会・日本教育学会・日本道徳教育学会・西日本哲学会・九州大学哲学会