マイナス1 歳から始まる生涯の健康づくり

2015.05.08
通信教育部長・教育学部教授  近藤 洋子

私の専門領域は公衆衛生学ですが,その中でも母子保健を専門としています。最近の母子保健分野で注目されていることの一つに,エピジェネティクス(epigenetics)という概念があります。エピジェネティクスのエピ(epi)とは「後に」や「上に」という意味のギリシャ語の接頭語であり,ジェネティクス(genetics)は遺伝学のことです。すなわち,エピジェネティクスとは,ゲノム配列に書き込まれた遺伝子情報に上書き,あるいは修飾された情報に関する学問ということになります。
昔から,子どもの発育・発達や人格形成などについては,「遺伝か環境か」という議論が重ねられてきていますし,「氏より育ち」などと言われたりします。エピジェネティクスの考え方では,遺伝子上の健康や病気が発現するかどうかは,発生の初期(胎児期)の環境に規定されているということになります。この考え方の発端となったのは,イギリスの医師であるバーカー教授が行った研究で,その内容は,出生体重の軽い子どもは大人になって心筋梗塞などの心血管系疾患や生活習慣病にかかるリスクが高いということを疫学的に立証したものです。成人病胎児期発症説とも言われています。つまり,胎児期に栄養が十分でない環境で成育すると,低栄養状態に適応するように遺伝子発現のプログラミングがセットされ,それに対応した組織器官や代謝が出来上がります。そして,出生後に,胎児期とは逆の栄養豊富な環境で育つことになると,摂取したエネルギーを脂肪として体内に蓄積してしまい,生活習慣病になりやすい体質になってしまうのです。「三つ子の魂百まで」という諺がありますが,最近のエピジェネティクスの研究からは,胎児期から2 歳頃までの最初の1,000 日が生涯の健康を左右すると言われています。
出生体重は胎児期の栄養状態の目安になり,2,500 g 未満の場合を低出生体重と定義しています。わが国の低出生体重児の割合は9.6%(2013 年)であり,国際比較すると,OECD 27 カ国中で最も高い割合になっています。OECD 加盟国は西欧諸国なので,民族による違いがあるかも知れませんが,経年的にも,1980 年の5.2%から年々増加がみられています。公衆衛生や経済状態が世界トップクラスの日本のような国で,低出生体重児が増え続けていることは特異な現象とされています。
低出生体重児増加の背景には,喫煙者の増加,貧困家庭の増加,不妊治療による多胎児出生の増加なども考えられますが,最も大きな要因は,若い女性のやせ志向であり,それが妊娠期の体重増加制限につながっているのではないかと言われています。実際,20 代女性の4~5 人にひとりはやせ(BMI 18.5 未満)です。このようなやせ志向は,赤ちゃんの成育環境に影響し,ひいては国民の健康にも影響を及ぼすのではないかと心配されています。その対策として,社会全体がやせ志向を見直すとともに,将来親になる世代への健康教育がとても重要であると考えられています。

参考文献
仲 野徹『エピジェネティクス─新しい生命像をえがく』岩波新書,2014

プロフィール

  • 教育学部教授 教育学部長・通信教育部長
  • 東京大学大学院医学系研究科修士課程(保健学専攻・母子保健学講座)修了、博士(保健学)
  • 専門分野は、母子保健学、公衆衛生学
  • 財団法人日本児童手当協会(児童育成協会)こどもの城・小児保健部、玉川大学文学部教育学科、人間学科を経て現職
  • 著書:「新しい時代の子どもの保健」日本小児医事出版社、「小児保健」ミネルヴァ書房、「保育ライブラリ 小児保健」北大路書房、「子どもの保健と支援」日本小児医事出版社、「新 生と性の教育学」玉川大学出版部など。
  • 学会活動:日本小児保健学会、日本公衆衛生学会、日本母性衛生学会、日本学校保健学会、日本児童学会など