見えやすい学習と見えにくい学習

2015.06.29
魚崎 祐子

この春、我々の研究室は新しくできた大学研究棟2014に移りました。環境が変わるとそれに合わせて自分の認知や行動を変える必要がありますが、移転直後はエレベーターに乗って「ドアが閉まります」というアナウンスに対し、反射的に自宅マンションのフロアを押してしまったり、IDカードをかざさなければ開かないドアの前でたたずんでしまったり、といった具合に様々な失敗をしました。自分の研究室が何階にあるのかということはもちろん、教員エリアに入る時にはIDカードをかざさなければならないといった知識を持った上で移ってきたはずですが、行動面の学習は伴っていなかったようです。数回の(?)失敗の後、そのようなわかりやすい失敗はさすがにしなくなりました。心理学において学習とは様々な経験をすることにより、認知、行動、情緒などの変容を生じさせることを指しますが、新しい環境での生活に合うように私の学習も成立したようです。

このように、知識の有無や行動の獲得などはわかりやすい学習成果で、私たちはそちらに目を向けがちです。そのため、学習者を評価する際にもそのような点を指標にしやすいのではないでしょうか。たとえば我が家でも宿題を済ませたかどうかについて毎晩のように小学生の息子との間でバトルが繰り広げられています。同じ宿題を済ませていないという状態であっても、頭の中で考えていることや情緒面などには何らかの変化がおこっているのかもしれません。しかし、そのような外から見えにくい変化を拾い上げることはなかなかできず、行動面の変化のみを見て「学習していない」という評価を下してしまっているのです。教員として学生の皆さんと接している時にも同様の限界を感じることがあります。テストで確認できる学習成果の多くは、時間的に限られた中で知識を獲得したかどうかという限定的なものです。本来、学習成果として考えられる変化の中には、短いスパンで成果が見えるものもあれば、そもそも見えにくいもの、長いスパンでようやく見えてくるもの、など様々でしょう。知識伝達だけではない授業のあり方が探られる今日、それらの変化にどれだけ気づき、どのようにして適切に測るのかは教員にとって大きな課題になってくると思われます。

同時に、学習成果の中には評価の難しいものが存在するということを受け止める必要もあると考えます。かつて、私が中高時代をすごした学校には多くのユニークな先生がおられ、教科書を飛び越えたような授業が沢山ありました。社会の時間に扱う話題を選び、台本を作ってニュース番組を制作したことや、英語の課題でアメリカ人の先生に電話をかけることを課されドキドキしながらかけたこと、国語の時間に美しい日本語だからと森鷗外の『舞姫』をノートに書き写したことなど次々に思い出されます。ちなみにそれらの学習成果がどのように表れ、どのように評価されていたのかはよくわかりません。ただ、あれから長い時間が流れ、今でも思い出されるということは、明確に私の頭の中のネットワークに何らかの変化をおこした学習であったということでしょう。そのような即時の評価に直結しない学習も大事にしたいと感じる今日この頃です。

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 助教
  • 早稲田大学大学院人間科学研究科 博士後期課程修了
    博士(人間科学)
  • 専門は学習心理学、教育心理学
  • 早稲田大学助手などを経て現職。
  • 著書に『Dünyada Mentorluk Uygulamaları』(共著、Pegem Akademi Yayıncılık、2012年)、主要論文に『総合的な学習の時間における教師の支援が生徒の情報選択に及ぼす影響』(共著、日本教育工学会論文誌(30)、2006年)『テキストへの下線ひき行為が内容把握に及ぼす影響』(共著、日本教育工学会論文誌(26)、2003年)などがある。
  • 学会活動:日本教育工学会、日本教育心理学会、日本教授学習心理学会、日本発達心理学会 会員