学習者としての気づきを教育へ

2015.10.13
中村 香

通信教育部で学ぶ学生の多くは、学校教育や社会教育における教育者(学習支援者)を目指して学んでいる。その学習プロセスはどうであろうか。テキストを読んでも理解できない時、あるいは学習が捗らない時は、辛いことであろう。筆者自身も、本年度から新たなことを始めたので、初心者として学ぶ大変さを実感している。

何を始めたのかと言うと、学生の管弦楽団に、チェロ奏者として入れてもらったのである。教員の場合、指揮者をはじめとする指導者として部活動に携わっているが、筆者の場合、教える程の力量は無い。30代で留学をする迄、趣味でレッスンを受けていたが、10年以上弾いていなかったので、1年生として入団させてもらった。久しぶりに弾いてみると、音程が定まらず、雑音も入る。「我ながら下手だな~」とは思うものの、1曲目は何とかなりそうであった。問題は、2曲目。合奏の際に、弾けないどころか、どこを弾いているのかも分からなくなり、チェロを弾いていて、初めて胃が痛くなった。

しかし、痛い目に合うと、いろいろと考えるものである。教員として教える立場に居ると忘れてしまいがちな、周りについていけない・仲間に入れない学習者の辛さや、効果的な学習支援の方法などについて、改めて考える機会となった。

例えば、今日では教員が一方的に教えるよりも、学び合い・助け合う集団学習が推奨されている意味を実感した。周りに弾ける人が居れば、合奏についていけたからである。弾けない部分があっても、周りの音に助けられ、何処を弾いているのか分からなくなることはなかった。また、隣に居る仲間であれば、質問をし易い。そして、弾ける部分が増えて来ると、「もっと弾けるようになりたい」、「合奏は楽しい」という思いが湧いてくる。このような「当然そうだろう」と思えるようなことでも、リアルに感じたのは久しぶりである。

初心者として学ぶ大変さや喜びを実感すると、教員としての自らの在り方をふり返ることにもなっていた。例えば、筆者の添削は、学生が「もっと学びたい」、「学ぶことは楽しい」と思えるようなものになっているのか。申し訳ないことに、そうはなっていない。エンパワメントの教育効果を頭で理解していても、時間に追われながら添削をしていると、問題点の指摘ばかりになってしまっている。

中央教育審議会答申等にも記されているとおり、今日の教員には「学び続ける教師」であることが求められている。実践的力量を培う為には、知識・技能の絶えざる刷新が必要とのことである。確かに、教育者として新たなことを学び続けることは大事である。だが、自戒の念を込めて言うと、初心者や学習者として学び続けることで、教員としての自らの在り方をふり返ることも必要ではないだろうか。また、学習者の立場で学んでいる学生は、学習プロセスを通して教育や教員に対して気付いたことを捉え直し、教える立場になった際に生かしてくれることを期待したい。

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 教授
  • お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科  博士(学術)
  • 専門は、生涯学習論、組織学習論、成人学習論、社会教育学.
  • 多国籍企業に約10年間勤めた後、留学等を経て、現職。
  • 主な著訳書は、『生涯学習のイノベーション』(編著、玉川大学出版部、2013年)、『ボランティア活動をデザインする』(共著、学文社、2013年)、『生涯学習社会の展開』(編著、玉川大学出版部、2012年)、『学校・家庭・地域の連携と社会教育』(共著、東洋館出版社、2011年)、『学習する組織とは何か』(単著、鳳書房、2009年)、『学びあうコミュニティを培う』(共著、東洋館出版社、2009年)、『成人女性の学習』(共訳、鳳書房、2009年)など。
  • 学会活動:日本教育学会、日本社会教育学会、日本学習社会学会、日本産業教育学会、日本キャリアデザイン学会 など。