玉川学園メキシコ親善使節団

2017.01.31

学生、生徒たちによる芸能公演がメキシコとの文化交流を推進

1.野口英世像とメキシコ訪問

1960(昭和35)年、玉川学園の創立者である小原國芳はメキシコで行われた第3回国際大学協会総会に、日本私立大学の代表として出席。その際、メリダ市のメリダ大学(現在のユカタン州立自治大学)医学部付属のオーラン病院に立ち寄り、1919(大正8)年に同所で医学の研究を行った野口英世の研究室を見学した。その時に案内をしてくれたのが、親日家で開業医のビイヤヌエバ氏。ビイヤヌエバ氏はじめ野口英世から直接指導を受けた同大教授たちから「博士の遺徳を永遠に顕彰したい。そのために野口英世博士の記念像がほしい。」という希望があることを國芳は聞いた。國芳はその話を受けて、野口英世の銅像を贈呈する約束をした。

この話を聞いた学生、生徒たちはお小遣いやアルバイト代を集め、また礼拝献金などを加えることで約17万円の資金を作った。野口記念会の協力もあり、日本芸術院会員の吉田三郎氏の制作により、野口英世のブロンズ立像が完成。そして、1961(昭和36)年3月2日、駐日メキシコ大使バーエ氏を玉川の丘に招き、全学園あげての銅像贈呈式を行った。その後、日本の外務省の協力を得て、銅像は無事にメリダ市に運ばれた。

メキシコ大使に野口英世像を贈呈

2.玉川学園メキシコ親善使節団のメキシコ訪問

少年六勇士の記念碑

1961(昭和36)年6月25日の除幕式には、玉川学園メキシコ親善使節団(団長:小原國芳、教職員7人、研究生5人、大学生9人、高等部生9人、中学部生5人、小学部生4人の計40人からなる。副団長はメキシコ公演の総監督でもあった岡田陽)がメキシコ政府から招聘を受け、当時の駐墨大使も列席する中、オーラン病院の正門中庭で盛大にセレモニーが行われた。玉川学園メキシコ親善使節団のメキシコ滞在中の費用は、すべてメキシコのユカタン州政府が負担。除幕式の前には、メキシコ市にて、チャペルテペック公園の一角にあるニーニャス・エロイス(少年六勇士)の記念碑を参拝し、花輪と『メキシコ国歌』『照らせや光』の合唱を捧げた。さらにはそこからほど近い街角にある、メキシコ唯一人の先住民族出身の大統領ベニト・ファーレスの記念碑に花輪と『メキシコ国歌』『ハレルヤ』の合唱を捧げた。また、ポリテクニコ技術大学の講堂で初めての公演を行った。『黒田節』や『さくら』などを踊り、メキシコ民謡『ラ・クカラチャ』などを歌った。拍手喝采で、何度もアンコールがあった。初公演は大成功のうちに幕を閉じた。メリダ市に移動後には、メリダ市主催の歓迎昼食会や病院主催の朝食会が開催された。

ベニト・ファーレス大統領の記念碑

3.野口英世像の除幕式

除幕式の模様が『メキシコ親善旅行記』(玉川大学出版部発行)に次のように記述されている。当時、大学生としてこのメキシコ訪問に参加した方が書いたものである。

野口英世博士の銅像は、オーラン病院の正門と玄関のちょうど中央におかれ、まだ白い布をかぶせてありました。
林駐墨日本大使を中心に、ユカタン州知事、メリダ市長、病院長、それに小原先生が銅像の正面に立ち、私達がその後にならびました。
いよいよ野口英世博士像除幕式がはじまります。午後1時半、真昼の太陽はやけつくように照りつけますが、緊張しているせいか、今はさほどに感じません。
まずユカタン州知事と、林大使のスペイン語の御挨拶がありました。
そこで病院長の手によって、意外にあっさりと博士像をおおった白布がとりのぞかれました。
学園での贈呈式以来、三カ月ぶりに見る博士像。何だか銅の色も落ち着き、周囲の建物とよく調和して、たいへん立派に見えました。

病院長の手によって除幕
除幕式で合唱する学生・生徒たち
野口英世像
除幕式終了後、野口英世像を囲んで

4.日本芸能公演

除幕式終了後には、州知事招待のレセプションに参加。総勢100人に近い盛大なパーティーであった。さらに、学生、生徒たちによる日本芸能公演「日本の日」が企画された。一行は「日本文化の夕べ」公演で、日本の歌や演劇、伝統舞踊などを披露した。定刻の夜8時に開演。メキシコ、日本両国の国歌を歌う。観客も昼の除幕式同様に、大声で唱和してくれた。歌と舞踊を合わせたプログラムがスタート。第一部は『さくらさくら』『黒田節』『お江戸日本橋』『金毘羅船々』『ずいずいずっころばし』『カッパカッポレ』『村まつり』に小音楽劇『おしくらごんべ』。第二部は『ひえつき節』『馬子唄』『メキシコ民謡』(3曲)『赤とんぼ』『浜辺の歌』『松島音頭』『アイヌの踊り』『熊おどり』『つるぎの舞い』『雪のふる町』『子守唄』「ラテンリズムによる日本民謡」(『串本節』『八木節』『会津磐梯山』)。第三部は『阿波おどり』『木曽節』『五木の子守唄』『そうらん節』劇『桃太郎』踊り『越後獅子』『原体剣舞連』『つるぎの舞い』。その後、さらにオァハカ市、メキシコ市を訪れて日本文化を紹介する公演を行い、文化交流を推進した。テレビやラジオにも出演(4回)、現地の新聞にも大きく取り上げられた。例えば、オァハカ市では、新聞の一面のトップに「網のように結んだ日本とメキシコの友情」という見出しで、写真入りで使節団の紹介を載せてくれた。
オァハカ市では、ファーレス大学やオァハカ市役所での歓迎式に参加、大学生主催の朝食会にも出席した。ミトラ遺跡やモンテアルバン遺跡も見学。そして、映画でしか見たことのないような豪華な西欧風古典建築のマセドニオ・アルカラ劇場で公演を行った。

5.メキシコ大統領を表敬訪問

日本大使の招待会への参加や文部大臣訪問、さらにはメキシコ大統領を表敬する機会を得た。大統領は、40人の学生、生徒、児童、教職員の一人ひとりと握手。
メキシコ市での公演や大統領訪問の様子を國芳は次のように記している。

世界五指のうちにかぞえられるというメキシコ国立大劇場でも礼服姿の紳士淑女の観客を前に、堂々たる玉川っ子!ホントにうれしかったです。
大統領も涙してメキシコ国歌をうけて下さいました。小学生たちには額に口づけしたり、一人一人に心からの握手して下さいました。

日本大使の招待会
日本大使の招待会
文部大臣を訪問
大統領を訪問
大統領と握手
大統領と握手

メキシコ大統領謁見については『メキシコ親善旅行記』(玉川大学出版部発行)に次のように記されている。

テレビのビデオとりがひまどって指定された時間に間に合いそうもない。
女の子達は、舞踊の衣装から急いで和服にきかえ、紐をむすびながら走る。大きな帯を結ぶのはバスの中でという、メキシコならではのハナレワザ。 (略) 
やがて、ものものしく大勢の人々に囲まれて大統領が出てこられた。まだ若い壮年の立派な紳士、さすがに一段と貫禄がある。
小原先生、つかつかと進み出て「グラン・オノール」なんて一ツ覚えのスペイン語で大統領と握手される。そして通訳をとおして、メキシコの国歌をうたってもよいかと伺う。どうぞということで、大統領の前でメキシコ国歌を歌うことになる。今までずいぶん歌い馴れて来たし、部屋の音響もよかったから、我ながら見事に歌えた。大統領も感動の面持で、じっと聞いてくださった。
終ると、小学三年のマヤチャンが進み出て「マヤコオカダ、スーセルビドーラ」とやってのけ、手を差しのべる。いい度胸だ。大統領は両手でマヤチャンの頬をはさみ、ニコニコしてオデコに口づけされる。
大勢の写真班が一斉にフラッシュを焚く。
つづいて、ミドリチャンもエッチャンもオデコに口づけ。あと全員、ひとりひとり大統領の前に進み出て握手。どこで仕入れたかスペイン語でそれぞれコッたあいさつをする。だんぜん日本語で名をなのるサムライもいる。
野渡君が進み出ると「オウ、モモタロウ!」と言われた。野渡君演ずる桃太郎をテレビで見ていてくださったらしい。
その後、大統領からの挨拶があり、記念撮影。その写真とメッセージは、翌朝のメキシコの各新聞のトップに大きく掲載された。

6.メキシコからロサンゼルス、ホノルルへ

一行は、メキシコでの2週間を終え、アメリカのロサンゼルスとハワイに移動、そこで約10日間滞在。ロサンゼルスではハンティントン・ライブラリーの見学、ロングビーチ州立大学の訪問、そしてロングビーチ大学では、ワーナー教授のお世話で、素敵な会場にて公演を行う。さらには國芳も一緒にディズニーランドへ。ハワイでは、ハワイ州知事、ホノルル市長を訪問。また、ポンチボールの丘の日系戦士四四二部隊のお墓をお参り。ハワイ時事、ハワイ報知、ハワイタイムズといった新聞社には代表が訪問した。

6月21日から7月17日までの26日間、メキシコ、ロサンゼルス、ハワイに滞在した一行は、メキシコ市、メリダ市、オァハカ市、ロサンゼルス市、ホノルル市で計13回の芸能公演を実施した。

メキシコのみなさんとの別れを惜しむ

7.その後のメキシコとの交流・・・皇太子殿下へ御拝謁、佐藤栄作首相との懇談

日本訪問のメキシコ大統領と再会

翌年の1962(昭和37)年には、メキシコ大統領が訪日。1965(昭和40)年にはビイヤヌエバ博士と令嬢を國芳が日本に招待。4月7日に来日。その後、箱根、京都、奈良へ。12日、ホテルニューオータニにて、ビイヤヌエバ博士と令嬢の歓迎レセプションを開催。乾杯の発声は映画俳優の三船敏郎氏。14日には日光へ、翌日の15日には野口英世の故郷である福島へ。福島から戻られた翌日の17日、小原はお二人を御所にお連れして、皇太子殿下へ御拝謁。18日は歌舞伎鑑賞。翌日は首相官邸へ。佐藤栄作首相と懇談後、ビイヤヌエバ博士は文部省にて文部大臣より勲三等瑞宝章を受けた。そして、ビイヤヌエバ博士と令嬢は大変感激された。その後、お二人は広島、長崎を訪問し、帰京後の23日に帰国された。

文部大臣より勲三等瑞宝章を受けるビイヤヌエバ博士
佐藤栄作首相を訪問

それから10年後の1976(昭和51)年に、國芳は、メキシコ大統領より勲章をもらうこととなった。國芳が亡くなる1年前のことであった。
1985(昭和60)年にはメキシコで大地震が起こった。玉川学園では、毎週行う礼拝で献金を募り、小・中・高・大の児童、生徒、学生の代表が、メキシコ大使館にお見舞金として届けた。

8.メキシコ親善公演旅行に際して小原國芳からのメッセージ

上述のとおり日墨両国の親善に重要な役割を果たした玉川学園メキシコ親善使節団は、その後の海外公演、また、学生、生徒の海外交換留学制度などの先駆的な取組として高く評価された。
小原國芳がこのメキシコ親善公演旅行に際してのメッセージの中で、次のようなことを述べている。

若い時代によその国々を訪問し、その国土や人々に接することは、広く人類を愛し、平和を欲する人に育てるために、最もよい方法であると信ずるからであります。学生達を宇宙時代にふさわしい人間に育てるためには「地球はわれらの故郷である」ということを、心から納得させたいと思います。 (略) 学校教育というものは、決して教室の中だけで行われるものではありません。地球上、宇宙上すべてが教育の場所であると信じていますから、この度の試みは、ただ単に教室をメキシコに移動させたに過ぎないのです。

参考文献

  • 玉川学園編『メキシコ親善旅行記』 玉川大学出版部 2007年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史 写真編』 玉川学園 1980年