興亜工業大学

2013.06.05

時代に翻弄された 幻の玉川塾工業大学

小原國芳と興亜工業大学第1回生

興亜工業大学(予科3年、本科3年の旧制単科大学。学科は航空工学、冶金、工業経営の3学科、1学年定員160人)は、現在の千葉工業大学の前身として、1942(昭和17)年に玉川学園内に設立された。私立の工業単科大学としては、藤原工業大学(後の慶應義塾大学工学部)に次ぐ、国内で2番目に古い歴史を持つ。
もともとは小原國芳によって計画され、準備された大学であり、順調に進めば、玉川学園大学部が産声を上げるはずであった。しかし、時代は太平洋戦争の真っただ中にあり、設置認可の際に、「玉川塾工業大学」では受理できないと、退けられてしまう。文部省から「東亜」か「興亜」のいずれかの名称で申請するよう指示される。そこで、小原國芳は、東郷実、小西重直を代表者とする設立認可申請書を改めて提出することとなった。設置趣旨書の作成には、小原國芳のほか、政治評論家の徳富蘇峰、作家の武者小路実篤、キリスト教伝道者の本間俊平、哲学者で小原國芳の京都帝国大学時代の恩師である西田幾多郎、磁性物理学の世界的権威である本多光太郎らが参加したといわれている。

こうして、興亜工業大学は「興亜」という名前の通り、政府主導で国策的な意図を持って設立された。言い換えれば、単に高い技術を持った技術者や専門家を養成することを目的とするのではなく、国家中枢を担う人材の養成が求められたのだ。
そのような事情から、興亜工業大学の建学の精神は、太平洋戦争の影響を反映した国策的な意図と、小原國芳が目指した教育が入り混じった次のようなものとなっている。
1.新国士の養成
2.全人教育
3.労作教育
4.塾教育
5.貧しき家に生まれし優秀児の救済
6.工場、鉱山、商店などを学校とする計画
7.天才教育
8.アジア共栄圏学生の教育

とりわけ、「新国士の養成」と「アジア共栄圏学生の教育」は時代を反映した内容だ。「新国士」とは、「吉田松陰先生の如く、燃える愛国心と、広く世界に知識を求める好学心とを兼備し、国家のみならずアジアを背負い、世界文化に尽力する」人物を養成すると記載されている。
しかし、上の8項目は戦時下という特殊な背景による表現の違いはあるにしても、本学創設当初から現在に至るまで、小原國芳の一貫した教育理想そのものであり、外見はともかく、興亜工業大学は、本学が14年目にしてようやくたどりついた大学の開設であった。
小原國芳は興亜工業大学の教育の目標を、次のように語っている。
「工業大学ではありますが、その根本たるべき教育の大方針は、永年にわたって学園が苦闘しつつ探究して来た高き理想と血のにじむ実際体験にもとづくものであります」

1943(昭和18)年度学生募集ポスター

興亜工業大学の施設は本学の校舎が用いられ、設備・施設が充実していたとは言いがたいものであったが、開校3年目の入学試験には、定員の約45倍にあたる7200人の受験生が殺到した。官民あげての大きな期待が寄せられ、当時の若者たちの羨望を集めた大学であったことがうかがえる。
その後、1943年、小原國芳は興亜工業大学の理事・学監を辞任。太平洋戦争が終焉した1945年、文部省から「学校移転を希望する学校に、旧軍事施設や備品類をあっせんする」という通達があり、興亜工業大学は千葉県君津郡君津町(現・君津市)に移転し、翌1946年には、国策色の強い旧名称を廃止し、現在の大学名となっている「千葉工業大学」に改称した。
開設からわずか3年10カ月、こうして興亜工業大学の名前は消失した。時代に翻弄された、幻の「玉川塾工業大学」――そこには実にさまざまなドラマが秘められていたといえるだろう。

参考文献
小原國芳編『全人』No.113 玉川学園出版部 1942
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』玉川学園 1980
千葉工業大学50年史刊行委員会『千葉工業大学50年史』千葉工業大学 1992