玉川の「労作」教育

2013.08.02

労作を通じて、働くことと、創造することの喜びを知る

玉川学園の正門を入ってすぐの坂下門右側にある築石には「一日不作、一日不食」の文字が刻まれている。これは、唐の時代の有名な禅僧、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉である。「働かざるもの食うべからず」という意味に捉えられがちだが、そうではない。「人は、労働することが一番大切なことであり、それができなければ食べることができない」と自らを律する言葉だ。

少年たちの労作 1931(昭和6)年

小原國芳は常々「額に汗を流し、労しむことは万人の喜びであり、誇りであり、義務である」と考え、労作教育を重視してきた。小原國芳は「作」は作業の作ではなくて、創作の作であり、「自ら考え、自ら体験し、自ら試み、創り、行うことによってこそ、真の知育、徳育が成就する」と考えた。小原國芳が目指したのは、「労作によって知行合一の強固なる意志と実践力を持った人間形成」であった。

出版部労作 1940(昭和15)年頃

そもそも労作教育は、20世紀の初頭にドイツの教育改革運動のなかで生まれた。従来のような書物中心の詰め込み教育への反動として、ゲオルグ・ケルシェンシュタイナーらが提唱したのが始まりである。
小原國芳は、「百聞は一見に如かず、百見は一労作に如かず」と繰り返し語っており、「真の知育は注入や棒暗記、試験勉強や単なる説明などの方法では得られるものではない。苦しみ、作り、体験し、試み、考え、行うことによってこそ得られる」と考え、労作を重視した。本に頼るのではなく、畑を耕したり、動物を飼育したり、バイオリンを作ったりといった「自発的な活動や創造的な仕事」を学びのなかに積極的に取り込んでいった。

印刷部労作 1932(昭和7)年頃

『玉川教育』(1963年版)のなかで小原國芳は次のように語っている。
「自ら植え、作り、工夫し、縫い、染め、張り、繕い、洗い、掃き……かくてこそ真の美育も達成されると思います。……ハンマーをふり、牛を飼い、土を運び、薪を割り、肥料をかつぎ、鋤をふるい、自らなせる新鮮なる野菜を食してこそ強壮なる健康も得られます」
「多種多様の労作教育は必然生きたる経済教育でもあり、職業教育ともなります。労作教育は実に、聖育、知育、徳育、美育、生産教育、健康教育の総合全一なのです」

塾食堂(現在のりんどう食堂)前で労作 1960(昭和35)年

大正期には、意欲ある教員たちの手によって、さまざまな教育法が試みられたが、日中戦争勃発後、教育界も戦時体制下でさまざまな制約があるなか、労作中心の生活教育は、活動が継続されていた。作業教育や労作教育は、大正期に広がった新教育運動とは異なる新しい運動として、当時の教育界で盛んに行われたものの一つである。
本学では、創立間もないころ、児童・生徒・学生や教職員が一丸となって、道を造り、校舎を建て、木を植えるなど、環境を整備してきた歴史がある。また、労作は時代とともにさまざまに変化してきた。例えば、昭和初期には、女子高等部生(専門部)による『女性日本』の編集、中学生によるパイプオルガンの組み立てや修理、養蚕、養鶏、園芸、女学部生(高等女学校に相当)の生徒による機織りや玉シャツ作りなどが行われた。また、塾生を中心に生活当番としての新聞や郵便、牛乳の配達なども行われた。

現在でも、小学1年生から大学までカリキュラムのなかに「労作」の時間が設けられており、教科学習のなかにも労作の要素が取り入れられている。例えば、実験や観察を含む理科、職業としても扱われる農業・工業の学習は労作の影響が大きい。あるいは、文学的、思索的教科によっても、子供たちの創造性を促すことで、労作的学習が可能となる。特に、小学生の段階では、実験・観察、創作などを通じて、労作と教科の一致を追求している。
一方、5~12年生(小学5年生から高校3年生)で行われている自由研究も、「労作」活動の一環といえるだろう。「ロボット製作」や「ソーラーバイシクルの研究」「バイオリン製作」などは、生産的な作業を通じ、学問を深め、研究を発展させる意味を持っている。

参考文献
海後宗臣他『教科書でみる近代日本の教育』 東京書籍 1979
玉川学園編『学園日記 労作教育研究』50号 玉川学園出版部 1933
玉川学園編『玉川教育―1963年版』 玉川大学出版部 1963
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980 
玉川学園小学部『労作教育の実際』 玉川学園出版部 1935