岡本 敏明

2013.08.15

玉川の丘では、「歌に始まり、歌に終わる」といわれるほど、「音楽」が学校生活の一部としてとけこんでいる。このような音楽的環境の基盤は、本学園創立期より音楽教育に邁進した岡本 敏明(おかもと としあき)によって創り上げられた。

岡本敏明

岡本敏明は、1907(明治40)年3月29日、宮崎市で生を受けた。父は同志社神学校で伝道に従事しており、そのため日本国中を2~3年程度の長さで転々とする幼少期を過ごした。母は教会での礼拝のオルガンを担当しつつ、牧師夫人として務めを果たし、多忙な毎日を送っていた。このような家庭環境もあってか、岡本は中学生の頃から、自ずと音楽学校への進学を志すようになった。その後、入学した東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)の高等師範科では、「作曲の出来る教師」となるために研鑽に励み、1929(昭和4)年3月に卒業した。

岡本敏明と創立者小原國芳が初めて出会った場所は、1929(昭和4)年1月、成城学園の校長室だった。挨拶もそこそこに、小原と秘書と岡本は、開校前の玉川の丘に車で向かった。当時は成城学園から玉川学園まで、車で約2時間かかったという。小さな丘陵の一角で車を止め、丘をあがって行くと、小原は「君、岡本君だったね。先方の丘を見なさい。あの丘の上に教会堂が出来てパイプオルガンがはいるんだよ。シカゴのキンボール社からだ。君もやるんだろうね」「後ろの丘には大体育館と講堂ができるんだ…」と語りかけ、岡本をたいへん驚かせた。

玉川学園の校歌は、岡本の作曲によるものである。既に田尾一一(たお かずいち:後の東京藝術大学音楽学部長)よる力強く宗教的な香りの高い詞は完成していた。岡本は、同年4月4日夕方に、ピアノも無い中、1時間ほどで作曲した。彼は聖山の中腹に立ち、「我等が学び舎となるべき新しい校舎に呼びかけるようなつもり」で、与えられた歌詞を歌いだした。
  空高く 野路は遙けし
  この丘に 我等はつどひ
  わがたまの 学び舎もらん   
当時の様子を「旋律は聖山の空気を振はして、何のこだはりもなく、たやすく流れ出た」「この歌に初めからこの曲がついて居つたような気がしてきました。これは詩と曲とが完全に溶け合つたためなのです」と、『学園日記』の創刊号に記している。毎朝キャンパスに響く校歌は、このように誕生したのである。

第12回「競演合唱祭」1938(昭和13)年11月23日
於:日比谷公会堂

創立当初の頃の玉川には、ピアノも音楽室もなく、今日と比べて必ずしも教育環境が十分でなかった。それでも岡本は、「子供たちが飛びついてうたえる歌、うたっている内に自然に合唱になる歌」を次々に作曲し、同時に子供たちに教えた。朝、昼、夕方の歌、歓迎の歌、別れの歌といった学校生活に密着して生まれた音楽は、数百曲以上ともいわれている。とりわけ、キリスト教的色彩を持つ本学園と生徒たちが、讃美歌の四部合唱の響きを自然と身につけていったことが特徴といえる。このため、普段歌う音楽も、自ずと合唱的な曲が多くなっていった。

このように生活の中における大小様々な音楽を通じて、玉川の生徒たちは、知らず知らずのうちに合唱に対する感覚を身につけていった。当時は、特に中学生の混声合唱団はとても珍しく、その歌唱力に高い評価を得ていた。昭和11年から13年の国民音楽協会主催の「競演合唱祭」(現・NHK全国学校音楽コンクール)では、3年連続で第1位を受賞したことは、それを物語っている。

「オリムピック蹴球選手送別音楽会」1936(昭和11年)5月28日
玉川が初めて新響「第九」に出演
合唱は玉川学園とオリオンコール

こうした実績に対し、小原は岡本にさらに教育課題を呈した。特定の合唱団だけでなく、全校生徒で学外の演奏会に出演することを原則としたのである。特筆すべきことは、戦前・戦中・前後の十数年間、玉川っ子たちが、新交響楽団(現・NHK交響楽団)によるベートーベンの「第九」の合唱に出演していたことだ。まさに出演すること自体が「偉大な精神教育」であり「宗教教育」といえよう。合唱指揮者としての岡本は、自身の『実践的音楽教育論』の中でこう振り返っている。「昭和23年頃までは、戦地に応召するという現実や、戦後の事情もあって、極端な男声不足で、くにたち音楽学校(原文ママ)合唱団のテナー・バスは、ほとんど、わたしが兼務していた玉川学園の中学生で補っていたのでした。」「ローゼンストックの指揮にこたえて、何回となく日比谷のステージに立ったのですから、一応、信用していただいてもいいと思います。」基本的な合唱曲を、日々の学校生活の中で数多く身につけていれば、「第九」という難曲も歌い通せることを証明するエピソードである。

ちなみに、よく知られている「蛙の合唱」は、玉川に滞在していたスイスのチンメルマン博士が本学園の生徒を指導する様子を聴いて、岡本が日本語訳をつくり、日本各地に広まったものである。岡本は「蛙の合唱」から輪唱のおもしろさに気づき、この曲も含めて何百曲もの輪唱曲を日本の小中学校に紹介した。同様に「どじょっこふなっこ」も玉川から日本中の小中学校で歌われるようになった。この曲は、玉川学園の合唱団が、1936(昭和11)年の春に、秋田市を訪問した際の歓迎会のときに誕生したものである。訪問先のある先生が、詩吟を朗唱するように、「春になれば氷(すが)こもとけて、どじょっこだのふなっこだの、夜があけたとおもうべな」と、歌ったところ、岡本が瞬間的に興味を示し、その場で男声合唱用に採譜を始めたのだ。やがて会が終わる頃になると、今度は生徒たちが、混声三部の合唱で「どじょっこふなっこ」を先生方に披露した。会場内は大いに盛り上がったという。玉川音楽には、このように周囲にいる人々に、笑いと喜びを共有する力がある。その礎を創ったのが岡本敏明なのである。

参考文献
小原國芳編『学園日記』創刊号 玉川學園出版部 1929
岡本先生を偲ぶ会『私の履歴書』(『岡本先生と私たち ―岡本敏明先生追悼文集―』所収)1983
岡本敏明『実践的音楽教育論』(株)河合楽器製作所出版部 1974
小原芳明編『全人』756号 玉川大学出版部 2011
増田研・高見良太『戦前の男声合唱団・オリオンコール』(『文化環境研究』文化環境研究会第6巻所収)長崎大学 2012